島津氏との協調と対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/09 14:00 UTC 版)
長禄3年(1459年)9代徳重の頃、虎居城の傍の川内川で徳重の娘が侍女と共に入水する事件が起こる。これは一説に、娘が父の行状を諌めるための自殺ともされる。 文明8年(1476年)1月、島津宗家11代守護の忠昌に対し、薩州島津家の島津国久ならびに豊州島津家の島津忠廉が肥後国の相良氏や菱刈氏と結託し叛乱に及ぶと、渋谷一族は守護方についた。しかし島津内部の混乱は常に敵と味方が入れ替わる状況であり、文明16年(1484年)10代重慶が東郷氏・入来院氏・菱刈氏・北原氏と島津氏征伐のために結託し領地を大隅国の姶良方面にまで広げたかと思うと、その翌年には重慶が守護方につき、東郷氏と入来院氏が豊州方と結び祁答院氏を攻めるといった有様であった。 島津宗家の混乱は続き、永正5年(1508年)に守護の忠昌が自殺、その後継である嫡男忠治、次男忠隆も相次いで早世、さらにその後を継いだ14代勝久が薩州家よりの逼迫から守護職を伊作忠良(島津忠良)の嫡子貴久に譲ったかと思うと、今度は再び守護に返り咲こうとした。さらに薩州家の島津実久が守護にならんと企てたために、その三氏のいずれが守護となるかで島津氏はますます混迷し、渋谷一族や他の国人らも時に貴久方、時に実久方、時に勝久方と従う相手を変え、また時にこれらへ抗う有様であった。 天文4年(1535年)、島津勝久が島津実久により鹿児島を逐われ、12代重武を頼って姶良の帖佐城へ逃れて来る。重武は北原氏と共にこれを支援し鹿児島へ攻め入ったが、初戦こそ勝利したものの実久方の後詰に敗れて帖佐へ逃れた。以降、勝久は祁答院氏・北原氏・北郷氏と頼る先を転々とし、豊後国の大友氏を頼ると二度と薩摩国へ戻ることはなかった。
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