島津斉彬の執政と長崎商法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 23:47 UTC 版)
「薩摩藩の長崎商法」の記事における「島津斉彬の執政と長崎商法」の解説
長崎商法は嘉永5年(1852年)から5年間の延長を幕府から認められた。しかし中国では太平天国の乱が始まっており、混乱した中国の情勢下で取り引きを行う商人たちの消息が確認できない状況も発生し、商品の仕入れがままならない状況に陥った。 このような時期に薩摩藩政を主導するようになったのが島津斉彬である。嘉永7年(1854年)3月、鹿児島で大火が発生し、城下町の多くが焼失し琉球貿易によってもたらされた多くの漢方薬種も焼失した。大火後、斉彬は琉球から薬種類を多く仕入れるよう指示した上で、そもそも長崎商法は困窮状態の琉球の援助を目的とした制度であるのにも関わらず、薩摩藩がその利益を独占していたと指摘した上で、琉球産物方の改革を指示した。これは斉彬と政治的に対立していた調所広郷の薩摩藩の利益のみを追求していたやり方からの転換を図ったものであった。 斉彬の指示を受けて琉球側に、漢方薬種を高く買い取るので琉球貿易で多く仕入れてくるよう指示が出された。実は鹿児島の大火による漢方薬種焼失という事情の他に、長崎に来航する中国船が急減しており、長崎商法で漢方薬種が高値取引出来ると見込んだのである。安政2年(1855年)、斉彬は老中阿部正弘と交渉して安政3年(1856年)で終了する長崎商法の5年延長の許可を得た。そして16品以外の丁子等14品目の漢方薬種について、安政3年(1856年)夏に帰国した渡唐役者からの売りさばきについて便宜を要請する願書が提出されると、幕府と交渉の上で天保12年(1841年)の特例許可に準じた形での長崎会所を通した売却が許可された。 しかし斉彬は琉球の思惑を超えて、琉球を開国させて中国や欧米諸国との貿易を進める計画を、琉球側の反発を抑え込む形で押し進めていく。この琉球開国計画は安政5年(1858年)7月の斉彬の急死によって頓挫する。しかし斉彬の長崎商法振興の方針は死後も継続され、取引高は年間制限額である銀1200貫目の2倍近くに達するようになった。しかし斉彬は困窮状態の琉球援助という長崎商法の目的を守るよう指示していたのにも関わらず、貿易量増大に平行するように琉球側に対する統制はより強化されてしまい、この点では斉彬の意志は反映されることはなかった。
※この「島津斉彬の執政と長崎商法」の解説は、「薩摩藩の長崎商法」の解説の一部です。
「島津斉彬の執政と長崎商法」を含む「薩摩藩の長崎商法」の記事については、「薩摩藩の長崎商法」の概要を参照ください。
- 島津斉彬の執政と長崎商法のページへのリンク