島津忠久への下司職任命
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元暦2年(1185年)8月17日付で源頼朝より、摂関家の家司である惟宗忠久(これむねのただひさ)が島津荘の下司職に任命された。忠久は諸国で守護や郡地頭職に任命されているが、その中で最も広大な島津荘を本貫にしようと「島津」姓を名乗った。 島津家家臣により書かれた山田聖栄自記(15世紀後半)及び、島津国史(江戸後期成立)によれば、地頭となった忠久は、文治2年(1186年)に薩摩国山門院(鹿児島県出水市)の木牟礼城に入り、その後、日向国島津院(宮崎県都城市)の堀之内御所に移ったと伝えられている。この他に、三国名勝図会(江戸後期成立)では、1196年(建久7年)に、山門院から島津院の祝吉御所に入り、その後、堀之内御所に移ったとする伝承もある。しかし、史実としては忠久が山門院、島津院いずれにも移住したとは認められず、伝承にすぎないという指摘がされている。 建久8年(1197年)12月薩摩・大隅国守護職を任じられ、この後まもなく、日向国守護職を補任される。 忠久は鎌倉時代以前は京都の公家を警護をする武士であり、親戚は大隅・日向国の国司を務めていた。惟宗氏は摂関家の家司を代々務めた家で、忠久は近衛家に仕える一方で、源頼朝の御家人であった。東国武士の比企氏や畠山氏に関係があり、儀礼に通じ、頼朝の信任を得ていたという。惟宗氏が元々仕えていた近衛家は、藤原頼通の子孫である関白藤原忠通の長男基実を祖とする家であり、鎌倉時代から島津荘の荘園領主となっている。こうした源頼朝・近衛家を巡る関係から、島津忠久は地頭職・守護職を得たのではないかと考えられる。以後、島津家は島津荘を巡って近衛家と長い関係を持つにいたった。 頼朝死後の建仁3年(1203年)9月、比企能員の変(比企の乱)が起こり、忠久はこの乱で北条氏によって滅ぼされた比企能員の縁者として大隅、薩摩、日向国の守護職を没収された。元久2年(1205年)に薩摩国守護職を回復するが、大隅国・日向国守護職や、島津荘大隅方・日向方惣地頭職もおおむね北条氏一族に占められた(得宗専制)。この事が鎌倉時代末期、5代目島津貞久が後醍醐天皇・足利高氏の呼びかけに応えて鎮西探題を攻撃する要因となった。
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