島津忠久への下司職任命とは? わかりやすく解説

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島津忠久への下司職任命

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 10:01 UTC 版)

島津荘」の記事における「島津忠久への下司職任命」の解説

元暦2年(1185年)8月17日付で源頼朝より、摂関家家司である惟宗忠久(これむねのただひさ)が島津荘下司職任命された。忠久は諸国守護郡地頭職に任命されているが、その中で最も広大な島津荘本貫にしようと「島津」姓を名乗った島津家家臣により書かれ山田聖自記15世紀後半)及び、島津国史(江戸後期成立によれば地頭となった忠久は、文治2年(1186年)に薩摩国山門院(鹿児島県出水市)の木牟礼城に入りその後日向国島津院(宮崎県都城市)の堀之内御所移った伝えられている。この他に、三国名勝図会江戸後期成立)では、1196年建久7年)に、山門院から島津院の祝吉御所入りその後堀之内御所移ったとする伝承もある。しかし、史実としては忠久が山門院、島津院いずれにも移住したとは認められず、伝承にすぎないという指摘がされている。 建久8年(1197年)12月薩摩大隅国守護職任じられこの後まもなく、日向国守護職補任される。 忠久は鎌倉時代以前京都公家警護をする武士であり、親戚大隅日向国国司務めていた。惟宗氏摂関家家司代々務めた家で、忠久は近衛家仕え一方で源頼朝御家人であった東国武士比企氏畠山氏に関係があり、儀礼通じ頼朝信任得ていたという。惟宗氏が元々仕えていた近衛家は、藤原頼通の子孫である関白藤原忠通長男基実を祖とする家であり、鎌倉時代から島津荘荘園領主となっている。こうした源頼朝近衛家を巡る関係から、島津忠久地頭職守護職得たではないか考えられる以後島津家島津荘巡って近衛家長い関係を持つにいたった頼朝死後の建仁3年1203年9月比企能員の変比企の乱)が起こり、忠久はこの乱で北条氏によって滅ぼされ比企能員縁者として大隅薩摩日向国守護職没収された。元久2年(1205年)に薩摩国守護職回復するが、大隅国日向国守護職や、島津荘大隅方・日向惣地頭職もおおむね北条氏一族占められた(得宗専制)。この事が鎌倉時代末期5代目島津貞久後醍醐天皇足利高氏呼びかけ応えて鎮西探題攻撃する要因となった

※この「島津忠久への下司職任命」の解説は、「島津荘」の解説の一部です。
「島津忠久への下司職任命」を含む「島津荘」の記事については、「島津荘」の概要を参照ください。

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