島津崋山・彦梁
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元文2年(1737年)に京都で誕生。諱は義張、字は琴王。左馬介と称した。崋山は号。崋山生誕の翌年に母の後藤氏が、さらにその翌年に父の島津義忠(号して衷良)も死去する。このため、父の友人の医師・京極高安夫婦に引きとられて養育された。最初、医術を、後に儒学を修めた。その後、平島公方8代目・平島義宜に招かれて平島に移住し、古津の「栖龍閣」に往み、義宜の子・足利義根の師となり、この地方の好学の士や僧侶を教育した。華山の妻・操も作詩したようで、辞世の句が墓碑に残っている。寛政6年(1794年)7月23日に平島(現・徳島県)で没。享年58。那賀川町大京原中塚墓地に埋葬された。 華山の義妹とその夫・平島公方家臣・高橋言守が2人の男子を残し、ともに死去したため、華山は朝彦梁のみを引き取り、養子とした。彦梁は9代当主・義根に仕え、「栖龍閣詩集」の編纂を助けた。その後、義根は藩主に増禄を求めたが受け入れられず、文化2年(1805年)阿波を去って紀伊に行き、さらに京都へ移った。彦梁も義根に従い京都に移る。
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