島津忠恒の出陣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 09:56 UTC 版)
忠恒は、自ら乱を鎮圧するため、徳川家康の許可を得て本国へ帰国、6月に鹿児島を出立し、東霧島金剛仏作寺を本営とし庄内を攻めた。島津氏の一門、重臣がこれに従った。特に北郷氏は旧領回復の機会であり奮戦した。庄内軍記によれば、忠恒の兵力は10万人と記されているが、実際は3万から4万人程度であった(高城町史)。 家康は家臣の山口直友、引き続いて豊臣政権の九州方面の取りまとめ役であった寺沢正成を使者として遣わし、和睦を促したが成立しなかった。また、九州の諸大名にも島津氏を支援するため出陣を要請した。島津豊久、秋月種長、伊東祐兵、相良長毎、高橋直次、高橋元種、太田一吉、立花宗茂、小西行長などに出陣が命ぜられたが、このうち、島津氏の一門である島津豊久は既に出陣しており、また、家臣の反乱を討伐するのに他家の援軍を仰ぐことを潔しとしない島津氏が固辞したこともあり、実際に庄内まで軍勢を進めたのは、秋月種長、高橋元種、太田一吉であった。 忠恒は、緒戦で山田城を落とし入城した。次いで恒吉城を落としたがその後はなかなか戦果を挙げられず、戦いは膠着状態となった。その後、忠恒は、野之美谷と志和地の間の森田に陣を築き、志和地城を兵糧攻めにした。忠真は志和地城へ食糧を送り込もうとしたがうまくいかなかったので、城内の窮乏は甚だしかった。 一方、忠真側の智将白石永仙らの活躍により、忠恒側の死傷者も多数にのぼった。義久も出陣し、財部城(鹿児島県財部)を攻めたが落とすことはできなかった。
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