島津斉興と「直看秘法」
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鹿児島県歴史資料センター黎明館には「玉里島津家資料」の1つとして『直看経作法伝書』と呼ばれる黒漆塗りの函に納められた文書群が存在する。金泥が施された函の蓋の表題および裏蓋に記された目録の文字は斉興本人の直筆であり、蒔絵が施された目録には文政11年2月25日の日付と斉興自身の花押があることから、斉興自身によって作成・保管された文書群であったことが分かる。 斉興は元々島津家に関して独自の歴史観を持っていたことは文政5年(1822年)に自らの草稿を元に木場貞良に整理・作成した『系譜略』(東京大学史料編纂所所蔵)で知られていた。同書下巻の諸言によれば、瓊瓊杵尊から三種の神器とともに代々伝えられてきた歴代天皇の秘法が存在していたが、清和天皇が我が子経基王が臣籍降下する際にこの秘法を授けて経基が「虎ノ巻」と呼び、「虎巻秘法」の名で代々嫡流に伝えられたとする。経基の子孫にあたる源頼朝が「虎巻秘法」を島津忠久(島津家には忠久を頼朝の落胤とする伝承がある)に授け島津家歴代当主によって守られてきたが、島津光久の時代に江戸幕府にそのことを追及されたため「虎巻秘法」は失われたと偽って秘かに「直看秘法」と改めて歴代当主のみが知る「最極甚深秘事」としたと記す。すなわち、斉興は「瓊瓊杵尊以来の歴代天皇の秘法が清和源氏の嫡流である島津家当主によって今日まで継承されている」という主張していたことになる。「直看秘法(虎巻秘法)」の実際の由来など不明な部分もあるが、少なくても斉興はこれを史実として信じて、その実践が島津家歴代当主の勤めと信じていた。 『直看経作法伝書』は斉興が存在を主張する「直看秘法(虎巻秘法)」に関する集大成であり、その中にある『虎巻根本諸作法最口伝規則』という斉興自筆の文書には文政10年(1827年)に硫黄島で八咫鏡が発見され、斉興がこれを入手した時の感慨が記されている。斉興は京都御所(当時)にある八咫鏡は本物ではなく、本物は安徳天皇によって硫黄島に持ち出され、「直看秘法」の実践者である自分が得ることになったと確信し、上山城(現在の城山)に宮を造営して安置したという。安徳天皇の末裔を名乗っていた硫黄島の長浜家(いわゆる「長浜天皇」)には島津家によって中身を持ち出されたとする「開かずの箱」事件が伝えられており、この2つの出来事は対応しているとみられている。 なお、斉興が入手して本物であると主張した八咫鏡とそれを収めた宮の所在は現在では不明となっている。
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