島津氏との対立と和解
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/30 01:47 UTC 版)
その後南北朝時代には南朝方に味方して、北朝方の島津氏らと争ったが、峰ヶ城攻防戦で当主の入来院重門は討死した。家督は嫡男・重頼が継いで、引き続き島津氏との争いを繰り広げた。後に島津氏が今川了俊と対立すると南九州国人一揆に参画し武家方に転じた。その後も島津氏とは抗争を続けるも、今川了俊の失脚によって劣勢に転じ、島津元久や島津伊久らの攻撃によって居城の清色城が包囲され、重頼は降伏して清色城を去った。 しかし島津元久と島津伊久は不和となり、重頼は伊久に味方して失地の回復を図った。応永8年(1400年)、伊久と重頼は協力して元久を破り、応永18年(1410年)には元久が病に倒れ、入来院重頼・重長父子は清色を回復した。島津奥州家の島津久豊は永利城を落として重長に与え、重長は奥州家に帰順した。 島津久豊の死後、嫡男の島津忠国が家督を継いだが、父ほどの統率力はなく、再び国人領主らの争いが頻発した。入来院重茂や重豊は島津忠国に協力して活躍した。島津忠国と島津用久との対立では忠国に味方したが、忠国と忠国嫡子の立久との対立においては、重豊は立久に協力した。
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