島津氏の台頭と琉球侵攻
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島津氏と琉球の関係は琉球王国の成立頃には始まったと考えられている。1471年(文明3年)に島津立久は室町幕府に申上し、島津が発給する琉球渡海朱印状を帯びない貿易船を取り締まる貿易統制権を同幕府より得る。このように日本から琉球へ向かう海上航行権を巡って薩摩国の島津氏の発言力が高まり、やがて貿易の独占を志向するようになった。実際、この時点では立久と尚円王(金丸)との間で遣使し合って合意に達し、琉薩間に目立った対立はなかった。むしろ、島津氏は15世紀から16世紀にかけて内紛や九州島内などでの戦乱に明け暮れており、たとえ琉球が合意を違えたとしても、それを監視、問責や介入などをする余裕はなかった。 島津氏が影響力の行使により琉球貿易の独占を志向し始めたのは16世紀前半から1609年の琉球出兵の頃にかけてであり、この頃から島津氏は「三宅国秀事件」(1516年に備中の住人である三宅和泉守国秀が琉球征服を企てたのを島津氏が阻止したとされる)や「嘉吉附庸説」(1441年(嘉吉元年)に島津氏が功績により室町幕府6代将軍足利義教より琉球を賜ったとする)を持ち出して琉球への介入を正当化しようと言う動きに出始める。なお嘉吉附庸説は虚偽であったと後世の研究では考えられている。なお、三宅和泉守ではなく、鳥取鹿野藩の亀井茲矩も戦の恩賞を名目に琉球侵攻を目論んでおり、朝鮮役で立ち消えとなるがこちらは史実と考えられている。 地政学的にも、長年の内紛が終息した島津氏が肝付氏らを破って南九州の支配権を回復する(1575年以降)と肝付氏から志布志・串間などの港湾を没収して直轄化し、種子島氏・禰寝氏・頴娃氏などこれまで半ば独自に琉球との交易を行ってきた島津氏傘下の国人領主に対しても厳しい統制を行って貿易の引き締めを図った。一方、琉球に対しても強硬な態度を取り、島津氏の渡航朱印状を帯びない船舶との交易の停止を要求すると、琉球側はこれを黙殺した。 島津氏は前述の通り、尚円王の代から倭寇対策を名目に島津氏の渡航朱印状を持たない船との交易の停止を求めてはいたが、琉球側は曖昧な対応を取っており、島津氏側もこれを強制する術を持たなかったが、この時代に入ると強硬な対応に転じた。琉球側は黙殺を続けたために両者の関係は次第に敵対関係に転じていった。更に秀吉や家康との使節交流や朝鮮役の軍務負担でも軋轢を生じ、朝鮮役後の日明関係修復の使節仲介などを巡っての島津氏からの最後通牒も琉球は黙殺したため、1609年の薩摩藩(島津氏)による琉球侵攻に至る。 薩摩藩の出兵の背景には、このように日本天下人の意向(特に秀吉は琉球を直接恫喝していたが、琉球は明国からの救援は得られず仕舞いであった)や朝鮮出兵から朱印船貿易に至るまでの日本の時代背景や、薩摩藩自身の財政難などによる領主的危機感の高揚などもあった。出兵後、琉球から奄美を割譲させ薩摩蔵入地にしたり琉球から租税の徴収を行っている。 明に代わって中国本土を掌握した清も琉球国王に冊封を与え、福州に琉球館の設置を許した。同じころ、鎖国政策を取っていた江戸幕府は貿易の維持のために薩摩藩の琉球を介した貿易を容認する姿勢を示した。だが、それは琉球王国にとっては生糸や薬種など日本(江戸幕府および薩摩藩)が必要とする品を確保・献上する義務を負う事になった。
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