島津氏中興の祖
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忠良は島津貴久が伊集院一宇治城から鹿児島内城に移ると天文19年(1550年)に加世田に本格的に隠居した。しかし実権は握り続けて、琉球を通じた対明貿易や、鉄砲の大量購入、家臣団の育成に励んだ。また万之瀬川に橋を掛け、麓と呼ばれる城下町を整備、養蚕などの産業を興し多くの仁政を敷いた。忠良はその後の島津氏発展の基礎を作り出し「島津家中興の祖」と言われ大きな影響力を与える事になった。 また、忠良は人間としての履み行うべき道を教え諭した『いろは歌』の創作でも有名である。これは日学を広めるために、平易な歌謡によって、その精神をあらわそうとした試みで47首からなる。「いにしへの道を聞きても唱えへてもわが行いにせずばかひなし」に始まる歌であるが、この儒教的な心構えを基礎とした忠良の教育論は、孫の四兄弟・義久、義弘、歳久、家久にまで受け継がれることとなり、その後の薩摩独特の士風と文化の基盤を築いた。いろは歌は後の薩摩藩士の郷中教育の規範となり現代にも大きな影響を与えている。 いずれも優秀な四人の孫を「義久は三州の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て他に傑出し、歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」と高く評し期待していた。 深く禅宗(曹洞宗)に帰依し、永禄7年(1564年)、加世田武田の地に保泉寺を再建。忠良の死後、7世住持の梅安和尚が寺号を日新寺と改めた。日新寺は明治2年(1869年)の廃仏毀釈により破壊され廃寺となったが、その4年後の明治6年(1873年)に同地に竹田神社として再興され、忠良は祭神として祀られた。 永禄11年(1568年)12月13日、77歳で加世田にて死去。辞世は「不来不去 四大不空 本是法界 我心如心」。
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