島津氏中興の祖とは? わかりやすく解説

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島津氏中興の祖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 01:18 UTC 版)

島津忠良」の記事における「島津氏中興の祖」の解説

忠良島津貴久伊集院一宇治城から鹿児島内城に移ると天文19年1550年)に加世田本格的に隠居した。しかし実権握り続けて琉球通じた対明貿易や、鉄砲大量購入家臣団育成励んだ。また万之瀬川掛け、麓と呼ばれる城下町整備養蚕などの産業興し多く仁政敷いた忠良その後島津氏発展基礎作り出し島津家中興の祖と言われ大きな影響力与える事になったまた、忠良人間としての履み行うべき道を教え諭したいろは歌』の創作でも有名である。これは日学広めるために、平易な歌謡によって、その精神をあらわそうとした試み47からなる。「いにしへの道聞きても唱えへてもわが行いにせずばかひなし」に始まる歌であるが、この儒教的心構え基礎とした忠良教育論は、孫の四兄弟義久義弘、歳久、家久にまで受け継がれることとなり、その後薩摩独特の士風文化基盤築いたいろは歌は後の薩摩藩士の郷中教育規範となり現代にも大きな影響与えている。 いずれも優秀な四人の孫を「義久三州総大将たるの材徳自ら備わり、義弘雄武英略を以て他に傑出し、歳久は始終利害察する智計並びなく家久軍法戦術に妙を得たり」と高く評し期待していた。 深く禅宗曹洞宗)に帰依し永禄7年1564年)、加世田武田の地に保泉寺再建忠良死後、7世住持安和尚が寺号日新寺改めた日新寺明治2年1869年)の廃仏毀釈により破壊され廃寺となったが、その4年後の明治6年1873年)に同地竹田神社として再興され忠良祭神として祀られた。 永禄11年1568年12月13日77歳加世田にて死去辞世は「不来不去 四大不空 本是法界 我心如心」。

※この「島津氏中興の祖」の解説は、「島津忠良」の解説の一部です。
「島津氏中興の祖」を含む「島津忠良」の記事については、「島津忠良」の概要を参照ください。

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