ふくう【不空】
不空金剛
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不空金剛 | |
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神龍元年 - 大暦9年6月15日 (705年 - 774年7月28日) |
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諡号 | 不空三蔵 |
生地 | インド南部もしくは唐の涼州 |
宗旨 | 密教 |
師 | 善無畏、金剛智 |
弟子 | 恵果 |
不空金剛(ふくうこんごう、サンスクリット語: अमोघवज्र、Amoghavajra、アモーガヴァジュラ)は、唐の高僧、訳経僧。金剛智・善無畏によってもたらされた密教を唐に定着させた。真言宗では三蔵法師の一人である事から「不空三蔵」と尊称し、真言八祖の「付法の八祖」では第六祖、「伝持の八祖」では第四祖とする。また「不空」とも略称される。四大訳経家の1人。弟子には含光・慧超・恵果[注釈 1]・慧朗・元皎・覚超(六哲)がいる。
生涯
- 神龍元年(705年)生まれる。出生地は諸説あり、インド南部[1]、サマルカンド[2]、唐の涼州とも言われている。父はインド北部出身のバラモンで、母はソグド系人だった[2][3]。
- 開元2年(714年)長安で金剛智に師事し密教を学ぶ。
- 開元29年(741年)金剛智の入寂後に、師の遺言に従って『金剛頂経』の完本を求めるとともに、勅命により『大日経』等の密経経典を請求するためにセイロン・インド南部に渡るとともに、インドの龍智阿闍梨のもとに派遣されて、胎蔵・金剛両部にわたる伝法灌頂すなわち五部灌頂を伝授された[1]。
- 天宝5年(746年)に長安に帰る。
- 天宝14年(755年)、安史の乱をきっかけに 精力的に教化活動を行い、安禄山が洛陽を支配すると、不空は勅命により西京長安に帰り、大興善寺に住して灌頂の壇を築き、調伏の修法を行なった[1]。これにより、唐朝の帰依を集めた。
- 大暦9年(774年)入寂。
四大訳経家
110部143巻もの経典を漢訳し、鳩摩羅什・真諦・玄奘三蔵とともに、四大訳経家と呼ばれる。真言宗の重要経典である『理趣経』や、宿曜道の所依の教典『宿曜経』なども、不空が翻訳したものである(著者説もあり)。竜樹作を訳したとされた『菩提心論』は、今日では不空自身の著作ではないかとされている。
脚注
注釈
- ^ 空海の師であり、長安青龍寺で密教を空海に伝法した。
出典
- ^ a b c 真言宗|歴史|八祖
- ^ a b Lehnert, Martin (2010) (英語). Esoteric Buddhism and the Tantras in East Asia. Brill. p. 351. ISBN 9789004204010
- ^ Yang, Zeng (2010) (英語). A Biographical Study on Bukong 不空 (aka. Amoghavajra, 705-774) : Networks, Institutions, and Identities. University of British Columbia. p. 23. doi:10.14288/1.0363332
関係論文
- 頼富本宏訳注『不空三蔵行状』「現代語訳 一切経2」大東出版社、1997年
- CiNii>不空 -羂索
関連項目
不空(ふくう)
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裏天台座主。空顕の同期だったが、大魔王尊との結縁灌頂に失敗し魔仏の器「黄幡星の種」を作りだす外道仏母体となる。自らがばら撒いた種で生まれた器に魔仏の魂を入れた仏像軍団を作り出し、それを以て西洋に戦争を仕掛けようとしている。地獄から戻った孔雀との戦いに敗れたことで復讐するために自ら地獄に落ちる。千年以上前の地獄に先回りして孔雀を待ち構えていたが、孔雀と明王として目覚めたフドウ(捨覚)に敗れて首を切り落とされる、最後の悪あがきとして羅睺を召喚するが、倶摩羅に踏み潰された。現世でも闇曼荼羅の仏になったことで暴走し、倶摩羅に処分された。
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