島津氏一門に組み入れられ、江戸時代へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/30 01:47 UTC 版)
「入来院氏」の記事における「島津氏一門に組み入れられ、江戸時代へ」の解説
その後は島津氏に背くことなく従い、天正年間前半には日向国伊東氏との戦いや、肥後国相良氏との戦いに従軍した。天正11年(1583年)に入来院重豊が死去。男子がなく、島津以久の子重時を養子として家督を継がせた。桓武平氏渋谷氏末裔の入来院氏はここに完全に島津氏の一門として組み入れられることとなった。 島津氏が勢力を拡大し、豊後国の大友宗麟が勢力を衰退させると宗麟は天下人豊臣秀吉を頼り、秀吉は九州平定を開始した。各地で島津軍は敗戦を続け、入来院重時も抗戦したが大敗を喫し、島津氏は豊臣秀吉に降伏した。 文禄4年(1595年)、島津氏領内では国人の在地性を切り離すため、所領替えが実施された。入来院氏は入来郷から大隅国湯之尾郷に移封となった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、入来院重時は島津義弘に従って出陣。島津の退き口と呼ばれる撤退戦の最中、重時は義弘らを見失い、近江国で追手の手に掛かって討死した。重時にも子が無く、島津義虎の子が入来院重高と名乗って家督を継いだ。 江戸時代に入ると再び入来郷に転封され、以後は一門重臣として明治維新を迎えた。
※この「島津氏一門に組み入れられ、江戸時代へ」の解説は、「入来院氏」の解説の一部です。
「島津氏一門に組み入れられ、江戸時代へ」を含む「入来院氏」の記事については、「入来院氏」の概要を参照ください。
- 島津氏一門に組み入れられ、江戸時代へのページへのリンク