島津氏の九州統一事業とは? わかりやすく解説

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島津氏の九州統一事業

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 15:16 UTC 版)

九州平定 (日本史)」の記事における「島津氏の九州統一事業」の解説

九州国分#九州の役前の九州国分計画」、「沖田畷の戦い」、および「戸次川の戦い」も参照 北は龍造寺氏、南は島津氏侵攻受けて劣勢に陥った大友氏信長接近し信長大友氏島津氏諸氏講和させて毛利氏背後を衝かせようとして、天正3年1575年)に関白左大臣近衛前久薩摩肥後下向させるなど、調停努めた島津義久も一応はそれに応じ構えをみせていたが、天正10年1582年以降本能寺の変山崎の戦いなどもあって大友氏領への侵攻をやめなかった。 いっぽう九州西部では、天正12年1584年3月島原半島において龍造寺氏島津有馬連合軍激突する沖田畷の戦い起こり、この戦闘で「肥前の熊」と異名をとった龍造寺隆信戦死するという激戦となった主君失った龍造寺家では、隆信嫡子龍造寺政家病弱であったため、重臣鍋島直茂国政委任してかろうじて領国肥前維持するという状態となった。 こうした島津氏強盛のなか、本国豊後維持さえ窮するようになった大友義鎮羽柴秀吉頼った天正13年1585年10月豊臣秀吉この年7月関白任官し、「藤原」に改姓)は島津大友両氏を含む九州諸大名に「九州停戦令」(九州停戦命令)を発した大友氏停戦令をすぐに受諾したのに対し島津氏家中激論かわした末に受諾決定するとともに鎌田政近秀吉のもとへ派遣して島津信長調停にしたがって停戦守ろうとしたのだが、大友氏側が攻めてきたので、戦争大友氏対す防戦であると弁明させた。 天正14年1586年3月鎌田大坂城において秀吉より提示され九州国分案には、肥後半国・豊前半国・筑後一国大友氏返還肥前毛利氏にあたえ、筑前秀吉所領にすることが盛られており、島津氏にとっては到底承伏しがたいものであった島津義久6月、この九州国分案を拒否して筑後筑前にまで侵攻したが、これに対し秀吉は「九州停戦令」に違反したとして、諸大名島津氏の「征伐」を命令した10月先陣毛利輝元は、軍監黒田孝高一族小早川隆景吉川元春とともに九州上陸し豊前小倉城福岡県北九州市)を陥落させた。いっぽう、義鎮の子大友義統救援には、長宗我部元親信親父子軍監仙石秀久十河存保四国地方諸将派遣したが、天正14年12月12日1587年1月20日)の豊後戸次川の戦いでは、島津氏秀吉配下の「中国・四国衆」の軍を破り、かえって豊後一国占領およんだ島津氏こうした行動について、日本史学池上裕子は「島津自力九州のほとんどを平定しその実績を秀吉認めさせよう考えた」ものであるとしている。

※この「島津氏の九州統一事業」の解説は、「九州平定 (日本史)」の解説の一部です。
「島津氏の九州統一事業」を含む「九州平定 (日本史)」の記事については、「九州平定 (日本史)」の概要を参照ください。

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