島津氏の九州統一事業
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「九州平定 (日本史)」の記事における「島津氏の九州統一事業」の解説
「九州国分#九州の役前の九州国分計画」、「沖田畷の戦い」、および「戸次川の戦い」も参照 北は龍造寺氏、南は島津氏の侵攻を受けて劣勢に陥った大友氏は信長に接近し、信長も大友氏・島津氏ら諸氏を講和させて毛利氏の背後を衝かせようとして、天正3年(1575年)に関白左大臣の近衛前久を薩摩・肥後に下向させるなど、調停に努めた。島津義久も一応はそれに応じる構えをみせていたが、天正10年(1582年)以降、本能寺の変や山崎の戦いなどもあって大友氏領への侵攻をやめなかった。 いっぽう、九州西部では、天正12年(1584年)3月、島原半島において龍造寺氏と島津・有馬連合軍が激突する沖田畷の戦いが起こり、この戦闘で「肥前の熊」と異名をとった龍造寺隆信が戦死するという激戦となった。主君を失った龍造寺家では、隆信の嫡子龍造寺政家が病弱であったため、重臣鍋島直茂に国政を委任してかろうじて領国肥前を維持するという状態となった。 こうした島津氏の強盛のなか、本国豊後の維持さえ窮するようになった大友義鎮は羽柴秀吉を頼った。天正13年(1585年)10月、豊臣秀吉(この年7月に関白に任官し、「藤原」に改姓)は島津・大友両氏を含む九州の諸大名に「九州停戦令」(九州停戦命令)を発した。大友氏は停戦令をすぐに受諾したのに対し、島津氏は家中で激論をかわした末に受諾を決定するとともに、鎌田政近を秀吉のもとへ派遣して、島津は信長の調停にしたがって停戦を守ろうとしたのだが、大友氏側が攻めてきたので、戦争は大友氏に対する防戦であると弁明させた。 天正14年(1586年)3月、鎌田が大坂城において秀吉より提示された九州国分案には、肥後半国・豊前半国・筑後一国を大友氏へ返還、肥前は毛利氏にあたえ、筑前は秀吉の所領にすることが盛られており、島津氏にとっては到底承伏しがたいものであった。島津義久は6月、この九州国分案を拒否して筑後・筑前にまで侵攻したが、これに対し、秀吉は「九州停戦令」に違反したとして、諸大名に島津氏の「征伐」を命令した。10月、先陣の毛利輝元は、軍監黒田孝高、一族の小早川隆景・吉川元春らとともに九州に上陸し、豊前小倉城(福岡県北九州市)を陥落させた。いっぽう、義鎮の子大友義統の救援には、長宗我部元親・信親父子、軍監仙石秀久、十河存保ら四国地方の諸将を派遣したが、天正14年12月12日(1587年1月20日)の豊後戸次川の戦いでは、島津氏は秀吉配下の「中国・四国衆」の軍を破り、かえって豊後一国の占領におよんだ。 島津氏のこうした行動について、日本史学者池上裕子は「島津は自力で九州のほとんどを平定し、その実績を秀吉に認めさせようと考えた」ものであるとしている。
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