やぐらの全盛期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:32 UTC 版)
最上級の将軍や執権・連署クラスはそれぞれに、あるいは代々の供養する場所、法事を執り行う空間として寺を持つが、鎌倉時代の中期以降の執権・連署クラスでも鎌倉市街地には広大な屋敷地を確保できず、公邸を鎌倉の市街地に持ちながら広大な別業(私邸)を鎌倉を取り囲む山の外に持ちそこに持仏堂を建てる。そこまではできない上流階級にも平安時代には見られなかった「納骨信仰」が伝わり、「勝地」を「結界の地」に納骨してそこに「墓参」したいというニーズが高まる。 そこに葬送請負も業とする律宗集団が参入する。「結界の地」としての共同墓地はもともと高台の見晴らしの良いところが選定されるが、鎌倉は狭く山に囲まれているので山となる。幸い律宗職能集団は土木工事のプロであるので「墓参」のための墳墓堂を岩窟として掘れる。それを法事を執り行う場所、堂と見立てて内壁を白い漆喰で塗り(画像6)、朱垂木やぐらのように朱色で屋根の垂木を模す(画像8)。律宗集団が連れてきた職能集団には石工も含まれ立派な石塔・石像も彫れる。五輪塔や板碑、宝篋印塔の墓銘に漆を塗り、金箔や金泥で文字を彩色する(画像10)。やぐらは平地の少ない鎌倉が人口数万から十万人とも推定されるほどに都市が膨れあがる中で、上流階級の墓参供養、生前墓への逆修 のニースに答えるものとして山頂や斜面に作られた納骨を兼ねた供養堂であるとされる。発掘調査からはやぐらは1270年前後から確認されるにしてもピークは1300年前後からであり、ちょうどその頃、石塔まで含めた全ての条件が鎌倉に揃っている。
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