納骨信仰とは? わかりやすく解説

納骨信仰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:32 UTC 版)

「やぐら」の記事における「納骨信仰」の解説

実朝の法華堂」の章で実朝の骨は高野山金剛三昧院送られたと記したが、『明月記』によると政子遺骨高野山送られている。この当時死後の功徳求めて仏教霊場火葬骨を納骨するという風習もあった。史料上の初見1044年長久5年)であり、そのときは僧が藤原惟盛なる者の妻の遺骨をその遺言により比叡山法華堂運んでいた。そうした霊場納骨してもらうことで仏との結縁けちえん)、死後の功徳得ようということである。こうした霊場として最も有名なのが高野山である。高野山への納骨初見1153年仁平3年)の御室(おむろ)門跡覚法法親王とされる1160年永暦元年)には鳥羽上皇寵妃美福門院遺骨遺言により高野山運ばれている。鎌倉時代には信濃の善光寺への納骨も有名で、物語では鎌倉時代末(あるいは室町時代前期)の成立とされる曽我物語』の真名本で虎が曾我兄妹遺骨善光寺運んでいる。説話集の『沙石集』にも出てくる。 同じ信濃では文永寺納骨用石室も知られている。そこには1283年弘安6年)の刻銘のある石室があり床石の上五輪塔を置きその前の床石穴を開けて、その穴の中の大甕納骨するようになっている。やぐらにも似たようなものがある(画像11)。「内部の納骨」で見たように南都七大寺一つ元興寺極楽坊本堂極楽堂)では長押上に小五輪塔納骨器として載せられていたし中尊寺金色堂でもやはり長押上に納骨が行われているのが解体修理の際に発見された。やぐらではこの「長押の上」を模すために天井間際納骨彫り込みを持つものが多数ある(画像13)。 鎌倉でも2000年から2002年にかけての調査で、都市鎌倉取り巻山稜部やその周辺には、やぐら群だけでなく荼毘跡や納骨堂納骨受け付けてくれる寺院存在確認されている。

※この「納骨信仰」の解説は、「やぐら」の解説の一部です。
「納骨信仰」を含む「やぐら」の記事については、「やぐら」の概要を参照ください。

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