納骨信仰
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「実朝の法華堂」の章で実朝の骨は高野山の金剛三昧院に送られたと記したが、『明月記』によると政子の遺骨も高野山に送られている。この当時、死後の功徳を求めて仏教の霊場に火葬骨を納骨するという風習もあった。史料上の初見は1044年(長久5年)であり、そのときは僧が藤原惟盛なる者の妻の遺骨をその遺言により比叡山の法華堂に運んでいた。そうした霊場に納骨してもらうことで仏との結縁(けちえん)、死後の功徳を得ようということである。こうした霊場として最も有名なのが高野山である。高野山への納骨の初見は1153年(仁平3年)の御室(おむろ)門跡の覚法法親王とされる。1160年(永暦元年)には鳥羽上皇の寵妃美福門院の遺骨も遺言により高野山に運ばれている。鎌倉時代には信濃の善光寺への納骨も有名で、物語では鎌倉時代末(あるいは室町時代前期)の成立とされる『曽我物語』の真名本で虎が曾我兄妹の遺骨を善光寺に運んでいる。説話集の『沙石集』にも出てくる。 同じ信濃では文永寺の納骨用石室も知られている。そこには1283年(弘安6年)の刻銘のある石室があり床石の上に五輪塔を置きその前の床石に穴を開けて、その穴の中の大甕に納骨するようになっている。やぐらにも似たようなものがある(画像11)。「内部の納骨」で見たように南都七大寺の一つ元興寺の極楽坊本堂(極楽堂)では長押上に小五輪塔を納骨器として載せられていたし、中尊寺金色堂でもやはり長押上に納骨が行われているのが解体修理の際に発見された。やぐらではこの「長押の上」を模すために天井間際に納骨用彫り込みを持つものが多数ある(画像13)。 鎌倉でも2000年から2002年にかけての調査で、都市鎌倉を取り巻く山稜部やその周辺には、やぐら群だけでなく荼毘跡や納骨堂、納骨を受け付けてくれる寺院の存在が確認されている。
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