納豆菌の発見
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最初に日本化学会誌に納豆菌に関する論文を発表したのは、1894年(明治27年)から3年間にわたり農科大学学院生だった矢部規矩治である。矢部は、納豆発酵中の化学変化について研究を続け、桿菌1種と球菌3種を発見したが、納豆の粘着物質である糸の生成原因に関しては研究未完に終わり、納豆菌の発見までには至っていなかった。その後、1902年(明治35年)に須田勝三郎らが Bacillus subtilis属菌であるところまで解明したが、発見には至らなかった。 発見されたのは1905年(明治38年)、農学博士の沢村真(澤村眞)によるものであり、納豆菌としてBacillus natto Sawamura (バチルス・ナットー・サワムラ)を分離した。衛生上の観点から、納豆の稲藁容器に疑問を持った沢村は、藁容器と納豆菌を分離する研究を行い、東京で売られていた納豆から、納豆特有の2種類の菌を突き止めた。第一号菌は風味の良い納豆をつくるが、第二号菌は粘りの点は優れても風味では第一号菌に劣るとされた。その後の沢村の研究によって、1912年(明治45年)になって納豆をつくるのは第一号菌だけで良いとし、その菌を「バチルス・ナットー・サワムラ」と名付け、1919年(大正8年)12月10日発行の雑誌『納豆』第一号に発表した。 さらに、納豆が藁に包まれていることを不潔だとして、納豆容器の改良に関心を寄せていた北海道帝国大学農学博士の半澤洵が研究を重ね、1916年(大正5年)に納豆菌の純粋培養に成功した。半澤は、1919年(大正8年)に「納豆容器審査改良会」を設立し、純粋培養法と衛生的で安定した納豆の製造方法「半澤式納豆製造法」を確立した。 それを「大学納豆」と称して売り出し近代納豆の始まりとなる。「大学納豆」をいち早く取り入れてベンチャー企業を起こし、1920年(大正10年)に半澤式納豆製造の産業化を行ったのが宮城野納豆製造所(仙台市)の創設者で後の初代全国納豆協同組合連合会会長の三浦二郎である 。以降、納豆菌「宮城野株」は市販の納豆の始祖株となる三大株(宮城野株、高橋株、成瀬株)の内の一つ。
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