納銭方の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 09:50 UTC 版)
京都の土倉・酒屋を支配下に置いた幕府は、「衆中」と呼ばれていたそれぞれの業者内の有力者が責任者となって幕府に代わって徴税を行い、その収入を幕府に納付する方針を採った。その責任者が納銭方であり、衆中は納銭方一衆あるいは土倉方一衆と称される。納銭方一衆と土倉方一衆を区別し前者を後者の代表とみなすこともあるが、少なくとも15世紀前半において両者は区別されていなかったと考えられている。この「土倉方一衆」は幕府側からの呼称でその実態は在京の有力山門土倉であった馬上一衆であった可能性が指摘されており、幕府は鎌倉時代より続くこの山門土倉をそのまま役銭の徴収に利用して山門の反発を押さえようとしたと考えられている。なお、納銭方一衆を通すことなく役銭を政所に直接進納するルート(直進)も存在した。 なお、記録上において納銭方の中に法体の姿を取って正実坊のように「○○坊」と名乗る有力土倉と、中村や沢村などの俗人の酒屋が存在する。こうした納銭方であった土倉の中には公方御倉に任じられる者も存在した。
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