紀北の六斎念仏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 04:00 UTC 版)
紀北の六斎念仏は、高野山麓を中心に北部の紀ノ川流域地域に濃密な分布がみられ、また、東部の由良川、南部(みなべ)川流域にも六斎念仏がみられる。これらの地域では高野山と密接にかかわる念仏信仰が展開したことから、「高野山系」として六斎念仏が類型されている。「高野ノボリ」や「コツノボセ信仰」(納骨信仰)など、山中他界の信仰と密接にかかわった形で展開していたことが知られ、高野山内のいくつかの寺院が山麓の講衆を掌握していたものと見られる。特に、那賀郡域では各地に六斎念仏堂と呼ばれる小堂が村に建てられており、『紀伊続風土記』に「六斎寺」といわれる寺院の名称が記され、六斎念仏の活動の拠点となっていたと考えられる。金石文資料や六斎講に残された文書類からは、「立念仏」「居念仏」また「夜念仏」といった衆や講が六斎念仏を構成する組織として存在したことも伺える。 また、この地域の六斎念仏は、他地域のものと比べて古様を残すと言われ「シヘン」「ハクマイ」「バンドウ」「オロシ」といった「南無阿弥陀仏」の繰り返しに独自の旋律を付す唄念仏によって形成される。これは融通念仏の本来の姿をよくとどめるといわれ、融通念仏の旋律のもととなったとされる「法照流五会念仏」に通じる念仏であることが指摘された。特に、このうちの「バンドウ」に、融通念仏のリフレインが確認できることなどから、宗教民俗学者の五来重によって紀北の六斎念仏は特に重視されてきた。現代まで続いた六斎念仏は、伊都郡かつらぎ町下天野であるが、同郡高野町、九度山町、紀ノ川市、岩出市、海南市、橋本市の各集落にもその痕跡を伝える石碑や道具類が残されている。この地域の講は、概ね高野山真言宗の檀家に属し、六斎念仏の本尊も、光明真言曼荼羅や弘法大師などの掛け軸を掲げる場合がある。 高野山麓東部の日高地域では「シヘン」などとともに「姫子」「あらたま」など和讃を主体とした曲が伝承されており、高野山麓北部とやや異なる形態を伝える。また「ゆずり念仏」と呼ばれる和讃を主体とした念仏曲も伝えられているが、これは「融通念仏」の転訛であることが指摘されている。このうち興国寺門前地区の六斎念仏は、高野聖三流の萱堂聖開祖でもある法灯国師覚心開基の興国寺で行われることで知られ、松明踊りと燈籠焼きの行事と一体となった形態を有する。 これら「高野山系」とされる唄念仏は、鉦のみを用いて、声明、朗詠などの宗教歌や世俗歌の旋律を基盤に、それらが高度に発展していることが特徴である。
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