紀南、植物採集・研究とは? わかりやすく解説

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紀南、植物採集・研究

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 00:38 UTC 版)

南方熊楠」の記事における「紀南、植物採集・研究」の解説

1900年明治33年10月15日14年ぶりに日本に帰国大阪理智院(大阪府泉南郡岬町)、次いで和歌山市円珠院居住する。翌1901年明治34年)、孫文和歌山来訪し、熊再会して旧交を温める1902年明治35年)、熊野にて植物採集採集中に小畔四郎知り合う田辺永住の地と定める。多屋四郎らと知り合う。『ネイチャー7月17日号に論文「ピトフォラ・オエドゴニア」を寄稿12月プルタルコス対比列伝英訳読書再開するルソー告白』をフランス原書読み始める。 1903年明治36年)、論文燕石考』完成。『ネイチャー4月30日号に論文日本発見」を、7月30日号に論文「ホオベニタケの分布」を寄稿7月18日付の土宜法龍の手紙の中にいわゆる南方マンダラ」の図を描き、「いずれの方よりも事理透徹して、この宇宙をなす」ことを説明する8月8日、この日付土宜法龍の手紙の中で、引き続き独自の曼荼羅思想について説明する1904年明治37年)、田辺に家を借りる。2月、マイアーズの『人格その死後存続』を読み始める。5月、ヒルシュの『天才退行』を読み始める。カービーの『エストニア英雄』を読み始める。 1905年明治38年4月より夜寝前にシェイクスピア全集を読むことを日課とし、興が乗る翌日朝にも続けて読んだ日記掲載されているだけでも23作品をこの時期読破している。6月、ディキンズとの共訳方丈記』の掲載された『王立アジア協会雑誌』1冊と抜刷11冊が送られる1906年明治39年2月アーサー・リスターからジェップを通じて送った47種の日本産変形菌同定に関する手紙送られる7月田辺闘鶏神社宮司田村宗造の四女松枝結婚(熊40歳松枝28歳)。6月タブノキクスノキ科)の朽ち木から採集した粘菌一種新種として記載された。熊発見した10種の新種粘菌のうち最初のもの。 1907年明治40年)、前年発布神社合祀令対し神社合祀反対運動起こす6月24日長男熊弥誕生2月8日より「田辺抜書」を開始する田辺図書館田辺中学法輪寺闘鶏神社などで借りた本の妙写。9月バートン版の『アラビアン・ナイト12冊を購入し就寝前に読み耽る1908年明治41年)、『ネイチャー11月26日号に論文魚類生え藻類」を寄稿1909年明治42年9月新聞牟婁新報』に神社合祀反対論陣を張る1910年明治43年)、紀伊教育会主催講習会場に酩酊状態で押し入り翌日家宅侵入逮捕監獄新種粘菌発見したという。『ネイチャー6月23日号に論文粘菌変形体の色1」を寄稿1911年明治44年)、柳田國男との文通始まり1913年まで続いた8月7日、この日付柳田國男宛書簡で「植物棲態学 ecology」という言葉用いる。11月12日柳田宛書簡では「エコロジー」、11月19日川村竹治宛書簡でも「エコロギー」という言葉用いている。9月柳田が『南方二書』を出版10月13日長女誕生1912年明治45年/大正元年)、田辺神島(かしま)が保安林指定される1913年大正2年)、柳田國男田辺来て面会する(熊47歳柳田39歳)。この時、熊緊張のあまり酒を痛飲し泥酔状態で面会したという。この時の模様柳田著書故郷70年」に詳しい。柳田親友松本烝治伴って宅を訪れた前述のように熊泥酔していた。そして松本に対して「こいつの親爺知っている松本荘一郎で、いつか撲ったことがある」というようなことをいい出した。 ただし「故郷70年」によると面会1911年になっている1914年大正3年)、1月から1923年11月まで『太陽』に「十二支考」を連載。『ネイチャー1月15日号に論文古代開頭手術」を寄稿。なお同年には第一次世界大戦始まった1915年大正4年)、アメリカ農務省植物学者スウィングルが田辺来訪し神島共同調査。『N&Q』に「戦争使われ動物」を掲載1916年大正5年) 、田辺に常(弟)の名義で家を買う。7月9日自宅柿の木粘菌新属を発見1917年9月頃よりロシア語独習し始める。雑誌に「ミイラについて」を掲載11月頃から「馬に関する民俗伝説」について調べ始める。 1918年5月頃、盛んに松葉蘭研究文通を行う。12月、「に関する民俗伝説」の執筆始める。 1919年9月24日、『大阪毎日新聞』に7回にわたって百科学者」と題した伝記掲載される1920年大正9年2月、『集古庚申一号に「なぞなぞ」を掲載8月土宜法龍招きで小畔四郎らと高野山菌類など調査する1921年大正10年)、粘菌新属を“ミナカテルラ・ロンギフィラ(ドイツ語版)”(Minakatella longifila、「長い糸の南方粘菌」の意。現在の標準和名はミナカタホコリ)と命名される命名者ロンドン自然史博物館粘菌学者グリエルマ・リスターであった2月、『現代』に「桑名徳蔵抗岩の話」を掲載。また同誌7号から「を食うて王となった話」を連載4月26日南方植物研究所発起人について、その後追加含めて原敬総理大臣以下28名の名前が『牟婁新報』に掲載される9月、「生きたのが来着連載10月第2回高野山訪問12月、「に関する民俗伝説」の執筆始める。 1922年大正11年)、南方植物研究所設立資金募集のため上京多く名士知人面会する7月日光採集旅行11月植物研究所基金集まったことを理由に常仕送り停止する1923年4月、『N&Q』への投稿論文石考」を書く。9月リスター宛て日本産粘菌141種の目録を送る。 1924年3月頃、バートン版『アラビアン・ナイト』を連日読み索引追補5月、「十二支考」等の論文版権料として中村古峡から500円半金として受け取る。 1925年大正14年)、長男熊弥が精神異常発症し入院のち自宅療養6月、「人柱の話」を連載1926年大正15年昭和元年2月、『南方閑話』が刊行5月、『南方随筆刊行イタリア菌類学者ブレサドラ大僧正ジアコーモ・ブレッサドーラ)の『図譜』("Iconographia Mycologica")の出版際し名誉委員推される。11月、熊品種選定した粘菌標品3790点を東宮(のちの昭和天皇)に進献する。 1927年、「現今本邦産す知れた粘菌種の目録」と「「田辺名物考」について」掲載10月、『彗星』に「続『一代男輪講』の掲載開始以後三田村鳶魚らの『西鶴輪講』に対す多数注釈を同誌に発表1928年10月妹尾官林植物の採集と図記を行なう1929年昭和4年6月1日紀南行幸昭和天皇田辺神島沖の戦艦「長門」艦上進講粘菌標本天皇献上した進講予定25分間であったが、天皇希望で5分延長された。献上物の箱など最高級のものに納められるのが常識だったが、開けやすくするため熊キャラメル大きな空箱入れて献上した1930年昭和5年6月天皇行幸記念して自詠自筆記念碑神島建立する植物採集減る。 1933年、「今井君の「大和本草菌類」に注記す」を掲載1934年、『ドルメン』に「地突き唄文句」を連載11月神島植物調査し、「田辺神島顕著樹木所在図」を作製する1935年昭和10年8月神島渡って久邇宮多嘉王と妃・息子講話する。12月24日神島が国の天然記念物指定される1936年、『牟婁新聞』に「新庄村合併について」を連載1939年、「訳本『源氏物語』普及について」を『日本』に12連載する1940年昭和15年11月10日学術功労者として東京での紀元二千六百年記念式典への招聘を受けるが、歩行不自由の理由で断る。 1941年昭和16年12月29日自宅にて永眠死因萎縮腎であった。満74歳没。田辺市稲成町真言宗高山寺葬られ

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