紀南分館の設置(1951-1955)
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「和歌山県立情報交流センターBig・U」の記事における「紀南分館の設置(1951-1955)」の解説
和歌山市にある和歌山県立図書館は、1945年(昭和20年)1月15日に和歌山連隊区司令部に館舎を接収されて事実上活動を休止したが、和歌山大空襲での館舎焼失を免れ、同年9月1日に司令部から館舎を返還されると活動を再開した。県立図書館は戦前の貸出文庫を再開し、1950年(昭和25年)に和歌山県教育庁社会教育課の宣伝車「ポニー号」を活用して移動文庫を開始した。移動文庫は県内各地方に「ブックセンター」を設け、そこを拠点に公民館や学校などの読書会へ10冊1組で1か月間貸し出すものであった。ポニー号は1台しかなかったため、和歌山市から離れた紀南地方での巡回が不十分となった。そこで西牟婁地区視聴覚教育研究会が中心となって、フィルムライブラリーを紀南地方に誘致しようと1950年(昭和25年)秋頃から運動を開始した。 その甲斐あって1951年(昭和26年)11月1日に紀南分館設置条例が制定され、紀南地方における図書・映画・紙芝居・幻灯などの貸出拠点として、12月8日に田辺市上屋敷町の田辺市公益質屋倉庫を借用して和歌山県立図書館紀南分館が開館した。分館長は西牟婁教育長が兼任し、職員は1人だけであった。紀南分館は紀南3地方(日高・西牟婁・東牟婁)を管轄し、田辺市とその周辺は分館から直接、その他の地域(本宮・勝浦・潮岬・印南・御坊など)はブックセンターから貸出文庫を実施した。視聴覚資料としては16ミリ映画フィルム約100本、幻灯フィルム約30本、紙芝居と展示資料は各10数組保有し、町村などの求めに応じて貸し出した。一方、映写機は地方教育局からの貸し出しを基本とし、紀南分館の保有分は教育局への補給用としていた。 1954年(昭和29年)2月時点の蔵書数は4,000冊、映画フィルムは200本、幻灯フィルムは400本あり、分館の建坪は10坪(≒33.1 m2)、貸出文庫の拠点数は120か所あった。この頃の紀南分館は貸出文庫のみで個人への貸し出しは行っていなかったが、1953年(昭和28年)に和歌山県立図書館本館が自動車文庫「たちばな号」を導入して個人への貸し出しを始めていたので、紀南分館にも自動車文庫の導入を求める声が上がった。そして1954年(昭和29年)7月3日に紀南分館へ自動車文庫「はまゆう号」が配備され、同年7月5日から6コース82か所の巡回を開始した。当時の紀南地方は紀北にも増して道幅が狭く未舗装の悪路が多かったため、巡回は困難を極めたが、巡回先からは熱烈な歓迎を受け、山間部では「開闢(かいびゃく)以来の文化の薫」という言葉で讃えられた。
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