郢
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郢(えい、拼音: )は、春秋戦国時代の楚の首都、および首都を指す名称である。
歴史
楚は遷都するたびに都城を郢と名づけており、郢と呼ばれた都は複数存在する。後世では時代や場所ごとに区別するため、郢に接頭辞を加える。
楚の歴代の都城は以下の通りである。なお、現在地名は推測であることを留意されたし。
- 丹陽:周の成王の時代に初代君主熊繹が封じられた地。丹江の北側にあり、楚人の移住に伴って移動したので固定の地名ではない。
- 郢:文王(一説には武王)の時代に遷都した。伝統的な見方によれば紀元前690年頃から紀元前278年の計400年以上にわたり楚の都だった。後に秦の南郡が置かれた。現在の湖北省荊州市荊州区に位置する。
- 鄀(鄀郢):昭王の時代に遷都した。後に郢に戻った。現在の湖北省襄陽市宜城市南東部に位置する。
- 鄢(鄢郢):恵王の時代に遷都した。後に郢に戻った。現在の湖北省襄陽市宜城市南東部に位置する。
- 陳(陳郢):頃襄王21年(紀元前278年)に白起に郢を落とされて遷都した。現在の河南省周口市淮陽区に位置する。
- 鉅陽(巨陽とも):考烈王10年(紀元前253年)に遷都した。陪都説がある。現在の安徽省阜陽市太和県に位置する。
- 寿春(寿郢):考烈王22年(紀元前241年)に遷都した。現在の安徽省淮南市寿県に位置する。
紀南城遺跡
湖北省荊州市荊州区にその跡地が存在し、現在では紀南城遺跡として、全国重点文物保護単位に指定されている。
多くの学説によれば、少なくとも春秋時代後半から紀元前3世紀頃までは、楚はこの都市を郢と呼んで首都としていたとされている。また、春秋左氏伝には、文公14年(前613年)と昭公23年(前519年)にそれぞれ「城郢(郢に城く)」とあることから、少なくともこの頃までには、楚はこの遺跡を首都として城壁の造営工事を行ったとされており、考古学的裏付けもされている。
ただし、この遺跡の一部には、春秋中期のものと見られる遺構もあることから、それ以前から楚がこの地を郢と呼び、首都を置いていた可能性も指摘される。この遺跡は、現在荊州市の行政区画内にあり、その城壁はおしなべて方形で、北3547m、西3751m、東3706m、南4502m、付近の八嶺山や紀山には当時の楚の王族の墓も散見される。
参考文献
関連項目
紀南城遺跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/01 14:06 UTC 版)
多くの学説によれば、少なくとも春秋時代後半から紀元前3世紀頃までは、楚はこの都市を郢と呼んで首都としていたとされている。また、春秋左氏伝には、文公14年(前613年)と昭公23年(前519年)にそれぞれ「城郢(郢に城く)」とあることから、少なくともこの頃までには、楚はこの遺跡を首都として城壁の造営工事を行ったとされており、考古学的裏付けもされている。 ただし、この遺跡の一部には、春秋中期のものと見られる遺構もあることから、それ以前から楚がこの地を郢と呼び、首都を置いていた可能性も指摘される。 この遺跡は、現在荊州市の行政区画内にあり、その城壁はおしなべて方形で、北3547m、西3751m、東3706m、南4502m、付近の八嶺山や紀山には当時の楚の王族の墓も散見される。
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