紀南城遺跡とは? わかりやすく解説

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/01 14:06 UTC 版)

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(えい、拼音: Yǐng)は、春秋戦国時代の首都である。

概要

湖北省荊州市荊州区にその跡地が存在し、現在では紀南城遺跡として、全国重点文物保護単位に指定されている。ただし、楚は遷都するたびに都城を郢と名づけており、従って春秋戦国期、ここ以外にも郢と呼ばれた都市は存在する。

紀南城遺跡

多くの学説によれば、少なくとも春秋時代後半から紀元前3世紀頃までは、楚はこの都市を郢と呼んで首都としていたとされている。また、春秋左氏伝には、文公14年(前613年)と昭公23年(前519年)にそれぞれ「城郢(郢に城く)」とあることから、少なくともこの頃までには、楚はこの遺跡を首都として城壁の造営工事を行ったとされており、考古学的裏付けもされている。

ただし、この遺跡の一部には、春秋中期のものと見られる遺構もあることから、それ以前から楚がこの地を郢と呼び、首都を置いていた可能性も指摘される。

この遺跡は、現在荊州市の行政区画内にあり、その城壁はおしなべて方形で、北3547m、西3751m、東3706m、南4502m、付近の八嶺山や紀山には当時の楚の王族の墓も散見される。

関連項目


紀南城遺跡

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「郢」の記事における「紀南城遺跡」の解説

多く学説によれば少なくとも春秋時代後半から紀元前3世紀頃までは、はこの都市を郢と呼んで首都としていたとされている。また、春秋左氏伝には、文公14年(前613年)と昭公23年(前519年)にそれぞれ「城郢(郢に城く)」とあることから、少なくともこの頃までには、はこの遺跡首都として城壁造営工事行ったとされており、考古学的裏付けもされている。 ただし、この遺跡一部には、春秋中期のものと見られる遺構もあることから、それ以前からがこの地を郢と呼び首都置いていた可能性指摘される。 この遺跡は、現在荊州市行政区画内にあり、その城壁おしなべて方形で、北3547m、西3751m、東3706m、南4502m、付近の八嶺山や紀山には当時王族の墓も散見される

※この「紀南城遺跡」の解説は、「郢」の解説の一部です。
「紀南城遺跡」を含む「郢」の記事については、「郢」の概要を参照ください。

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