紀吉継墓誌〈蓋共/〉
主名称: | 紀吉継墓誌〈蓋共/〉 |
指定番号: | 54 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1909.09.22(明治42.09.22) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 考古資料 |
ト書: | 延暦三年在銘/大阪府南河内郡太子町出土 |
員数: | 1具 |
時代区分: | 平安 |
年代: | 784 |
検索年代: | |
解説文: | 平安時代の資料。 |
考古資料: | 筑後国浮羽郡月岡古墳出土品 紀伊大谷古墳出土品 紀伊王子神社経塚出土品 紀吉継墓誌 経石 緑釉手付瓶 緑釉水注 |
紀吉継墓誌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/04 14:43 UTC 版)
紀吉継墓誌は、縦長約25センチメートル、横長約15センチメートル、厚さ約6センチメートルの直方体の塼製で、中国の墓誌に倣って本体と同じ大きさの蓋が付けられており、罫と文字は生乾きの状態で刻まれ、その後焼成されたものである。江戸時代に現在の大阪府南河内郡太子町春日の妙見寺の裏山から出土したと伝わり、明治42年(1909年)9月21日に古社寺保存法に基づく国宝(旧国宝、現在の重要文化財)に指定された。現在も同寺が所有する。18例のみ知られる古代日本の墓誌の中では最も新しいものである。銘文は以下の通り。 維延曆三年歳次甲子朔癸酉丁酉參議從四位下陸奥國按察使兼守鎮守副將軍勳四等紀氏諱廣純之女𠮷継墓志 文面には、吉継の没年月日と思われる「延暦三年」「朔癸酉丁酉」(正月二十五日)と、彼女の父である紀広純の官位姓名のみが記される。なお、墓誌の出土地は二上山麓にあり、同じ大阪府側からは船氏王後墓誌および高屋枚人墓誌が、奈良県側からは威奈真人大村骨蔵器が発見された他にも火葬墓や骨蔵器などが出土しており、同地帯は7〜8世紀には、官人の公葬地として使用されていたと考えられる。吉継本人について没年月日以外のことは分からないが、光仁天皇・桓武天皇に仕えた女官であったことが推察される。 吉継の父の広純は征夷に従事した貴族であるが、宝亀11年(780年)3月に伊治呰麻呂により道嶋大盾ともども伊治城で殺されたことが(宝亀の乱)、『続日本紀』に記されている。
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