楊貴氏墓誌とは? わかりやすく解説

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楊貴氏墓誌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/04 14:51 UTC 版)

楊貴氏墓誌(やぎし-ぼし)は、江戸時代に現・奈良県五條市で発見された古墓から出土したとされる墓誌で、墓主は吉備真備の母である楊貴氏とされる。日本古代の墓誌の数少ない遺品の一例ではあるが現物の所在は不明、出土地とされる場所には文化11年(1814年)と大正末年(20世紀前葉)とに建碑された墓碑が立ち、毎年9月12日(もと旧暦8月12日)には地元の人々により周囲の清掃と慰霊祭が斎行されている。


  1. ^ 東野治之、「墓誌」(『国史大辞典』第12巻、吉川弘文館、平成3年)。
  2. ^ 同前。18例中、記録のみが残されて現物の現存しないものが本墓誌他1例。
  3. ^ 塼とは土を焼いて方形または長方形の板状にしたもの。現在のに相当する。
  4. ^ 東野治之、「楊貴氏墓誌」(『国史大辞典』第14巻、吉川弘文館、平成5年)。
  5. ^ 官位相当制において、官位よりも高い官職に就く場合は「守」と、逆に低い官職に就く場合は「行」と位署する。右衛士督の官位相当は正五位上なので「守」となり、中宮亮は従五位下なので「行」となる。
  6. ^ 真備の官職、位階については「吉備真備#略伝」「同#経歴」を参照。
  7. ^ 岸、『五條市史 新修』所載「楊貴氏の墓誌」(通史編第4章第6節)。岸には後掲する同名の別論文があるため、以下便宜上『五條市史 新修』所載のものを「市史」と略記する。
  8. ^ 服藤早苗、「古代の母と子」(森浩一編『日本の古代 12女性の力』、中公文庫、1996所収)。
  9. ^ a b c d e 岸、「楊貴氏の墓誌」(『日本古代政治史研究』所収)。
  10. ^ 宮田俊彦、『吉備真備』(人物叢書80)、吉川弘文館、昭和53年。
  11. ^ 提唱者は定かではないが、塙保己一がこれを支持し、また保己一の『群書類従』の校訂を担当した中山信名もその著『墳墓考』においてこの点を指摘するなど、『群書類従』編纂時には広く認められていた(岸、「市史」)。
  12. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 近江、「楊貴氏墓誌の研究」。
  13. ^ 岸、「市史」。
  14. ^ 五條市大沢町字火打(位置概略)。
  15. ^ 近江前掲書。但し、東涯自身は現物を目にした訳ではないらしい(同書)。
  16. ^ 但し、棭斎も専ら五條代官所の学問所である主善(膳)館の教授、荒井鳴門からの報告に依っており、自身は実見していない(近江前掲書)。なお、鳴門は阿波国儒者で、文化2年(1805)に主善館が創設されるに際して教授として招聘された者という。
  17. ^ 現在東京国立博物館に所蔵。「#外部リンク」参照。
  18. ^ 寛斎の旧蔵本で東京国立博物館に所蔵。前掲注とは別本。
  19. ^ a b 翠軒の識文は『大日本金石史』所引。翠軒は寛政7年(1795)に『大日本史』編纂の用を兼ねて大和を巡遊したが、その折に現物から手拓した拓本を元に模刻したものという(近江前掲書)。
  20. ^ 『古京遺文』には高(縦)69、広(幅)9寸とあり(棭斎の寸法は現曲尺より短い尺度を用いているという(近江前掲書))、翠軒の識文によると縦6寸7分、横9寸、『大和名所図会』には長さ7寸、横1尺、『好古小録』は長さ6寸8分、潤(幅)9寸と記す。いずれも縦20センチ前後、横25センチ前後となり、天平尺に換算すると縦7寸幅1尺足らずとなる。
  21. ^ 翠軒の識文によれば厚さは1寸8分、『大和名所図会』は1寸6分、『好古小録』は厚2寸と記す。
  22. ^ a b 延見寺については不詳であるが、『奈良県宇智郡誌』によれば天平時代には大寺として存在した寺院で、後世に霖雨のために埋没したという。なお、『奈良県宇智郡誌』は奈良県宇智郡役所編、大正13年(1924)刊。
  23. ^ 蓮花寺は現五條市大沢町にある新四国札所第87番とされる仁和寺真言宗寺院
  24. ^ 例せば、古老説に言う小崖上には現在介護老人施設が建てられ、その敷地となっている。
  25. ^ 嘉兵衛は牧野村大字木ノ原(現五條市木ノ原町、なつみ台)の出身であったという(岸前掲両書)。
  26. ^ 一説に道路敷設の為であったという(近江前掲書)。
  27. ^ そこには「延享五辰年卯月八日造立」と刻まれていたという(近江前掲書)。なお『奈良県宇智郡誌』には、発掘後に和泉屋<ママ>嘉兵衛が墓誌を壺に納めて埋め戻し、その上に墓碑を建てて、大沢村民に年々米2升を喜捨して供養を行うよう依頼していたが、同家が破産したために以後は村民が醵金して供養を続けたとの伝えを載せている。
  28. ^ 「墓誌出土地」の後方10メートル程隔たった小崖上に20センチ四方で高さ1メートル程の墓碑が現存し、「文化十一戌八月十二日建之 / 施工五条村久保東兵衛」と刻まれている。
  29. ^ 土井実、「楊貴氏墓誌」(『五條市史 新修』所収、各説編第8章第1節)。
  30. ^ a b 東野治之、「日本古代の墓誌」(『日本古代の墓誌』所載)。
  31. ^ 東野治之、「紀吉継墓誌」(『国史大辞典』第4巻、吉川弘文館、昭和59年)、及び近江前掲書。
  32. ^ なお、銘文中に「亡妣」と見えるが、同時代の文献に「先妣」の用語はあるが「亡妣」という語は見られず(近江前掲書)、また「妣」という字には既に「亡き母」の意味がある。


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