遍歴 - 掘ったり埋めたり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/04 14:51 UTC 版)
「楊貴氏墓誌」の記事における「遍歴 - 掘ったり埋めたり」の解説
楊貴氏墓誌関係年表享保13年(1728) 古墓発掘(初度)。 享保21年まで(-1736) 伊藤東涯『輶軒小録』を著す。 不明 再埋納(初度)。 延享5年(1748) 再発掘(2度目)、蓮花寺へ奉納して出土地に建碑(延享墓碑)。 この間 立原翠軒や小林金芝等が墨拓。また、『大和名所図会』や『好古小録』等で紹介される。 文化11年(1814) 再埋納(2度目)と建碑(文化墓碑、現存)。 文政元年(1818) 狩谷棭斎『古京遺文』を著す。 嘉永2年(1849) 再発掘(3度目)と再埋納(3度目)。 明治30年代以前(1897-1906以前) 再発掘(4度目、調査のため)と再埋納(4度目)。 明治30年代 再発掘(5度目、調査のため)と喪失の発見。 大正末年(-1926) 伝出土地整備と建碑(大正墓碑、現存)。 出土後の経緯を『大日本金石史』等に依って見ると、出土後に蓮花寺へ納めたところ凶作が続き、遂に発掘による祟りであろうとの事から発掘場所に再埋納し、次いで延享5年(1748年)4月、古墓周辺の土地を所有した大坂道修町(現大阪府大阪市中央区道修町)の泉屋嘉兵衛なる者が、小屋を設けるために地均しをする過程で再発掘したため、墓誌を再度蓮花寺へ奉納して発掘場所には建碑をし、その後の60年は同寺で保管していたようで、この期間中に翠軒や五條住の小林金芝等が実見し、或いは墨拓をしたと推定されるが、文化11年(1814年)8月になって再度発掘現場に埋納するとともにそれを記念する墓碑を建碑し、更に嘉永2年(1849年)には埋納地が路傍であることを理由に再々度掘り返し、壺に納めて現「楊貴氏墓誌出土地」の場所に三度埋め戻したという。 以上のように「あまりにも複雑で理解できない」程の発掘と埋納を繰り返したためか、明治30年代(19・20世紀の交)に山田孝雄が現盛土であると思われる地点を調査のために発掘してみると、そこには口径1尺程の瓦瓶があるのみで墓誌も塼も存在しなかった。また、大正5年(1916年)に逝去した中矢丈太郎(享年78)という土地の古老の言によると、それ以前に1度発掘調査が行われたそうで、その時には2枚の瓦に挟まれた墓誌は存在しており、その後壺に納めて埋め戻しはしたものの後日埋納地の石垣が崩れ、その修復のために発掘したところ、既に壺の破片しか見つからなかったともいう。 最後に、現出土地は大正の末年(1920年代)に奈良県庁が、建てられていた延享時の碑の保存を目的としてこれを埋めて整地したもので、盛土上に現在の墓碑を建てたものという。
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