遍歴の騎士時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/09 06:22 UTC 版)
「ウィリアム・マーシャル (初代ペンブルック伯)」の記事における「遍歴の騎士時代」の解説
長男でなかったウィリアムは、相続すべき土地も財産もなかったため、財産は自分で稼ぐ必要があった。マーシャル家と姻戚関係(母の従兄弟)にあったタンカーヴィルのウィリアムの城で育てられる際、ウィリアムは騎士になるべく修行を積まされた。ウィリアム・ド・タンカーヴィルのところを出た彼は、母の兄弟のソールズベリー伯パトリックに仕えた。1168年、叔父パトリックがギー・ド・リュジニャンの待ち伏せに遭って殺され、ウィリアムもこの戦いで傷つき、捕虜にされる。しかし、ウィリアムの戦いぶりが高く評価され、アリエノール・ダキテーヌが身代金を支払ったので釈放された。そのため、ウィリアム・マーシャルの物語でアリエノールはかなり良い役回りを与えられている。 ウィリアムは1167年から騎士に叙任されていたが、やがて馬上槍試合(トーナメント)でうまく稼ぐ方法を思いついた。当時のトーナメントは危険を伴い、死ぬことすらあるというものだった。さらに、負けた場合は捕虜に取られ、勝利者に馬と甲冑を没収の上、身代金を支払うシステムであった。このトーナメントに勝利することでウィリアムは多額の身代金を手に入れ、一財産を作り上げることに成功する。1177年にロジェ・ドゴージと2人でトーナメントを渡り歩いた際、10ヶ月の間に2人で協力し、103人もの捕虜を取ったとされている。
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