遍歴時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 13:33 UTC 版)
鄭玄が58歳の時に党錮の禁が解除されて以来、鄭玄は悲惨な流亡に終始しなければならなかった。 中平3年(186年)、何進が鄭玄を招こうとした。州郡が何進の権威を楯に鄭玄を脅したため、鄭玄は止むを得ずその招きを受けた。何進が鄭玄を厚遇し丁重に扱ったが、鄭玄は一泊しただけですぐに逃走した。また、中平5年、袁隗が鄭玄を侍中に任命させようとすると、鄭玄は父の喪を理由に辞退した。 中平5年、黄巾の乱を避けて、学塾を高密から東萊の不其山に遷す。翌年、孔融の支援を受けて、再び高密に戻る。当時の有力者である孔融は鄭玄を深く敬っており、屋敷を造営し、鄭玄のために高密県へ布告を出して「鄭公郷」という郷を特別に設置させたという。なお、不其山への移動を初平2年または3年とする説もある。 初平2年(191年)、董卓が長安に遷都すると、公卿らは鄭玄を趙国の相に推挙したが、道が途絶していたため命令が鄭玄の元まで届かなかった。この頃、青州で黄巾の残党が蜂起し、鄭玄は徐州に避難し、徐州牧の陶謙の庇護を受けた。
※この「遍歴時代」の解説は、「鄭玄」の解説の一部です。
「遍歴時代」を含む「鄭玄」の記事については、「鄭玄」の概要を参照ください。
遍歴時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 09:52 UTC 版)
デカルトは、学園を離れるとともに書斎で読まれるような「書物」を捨てた。そして、猶予のない決断を迫る「世間という大きな書物」の中に飛び込んでいくことを決意する。 1618年、デカルト22歳のとき、オランダに赴きナッサウ伯マウリッツの軍隊に加わる。ただし、八十年戦争は1609年に休戦協定が結ばれており、実際の戦闘はなかった。マウリッツの軍隊は近代化されており、ステヴィン等の優れた数学者、技師などの起用によって、新兵器の開発も盛んであったことが知られていた。デカルトは自然科学者との交流を求めて、マウリッツの軍隊を選んだとも考えられる。 1618年11月、オランダ国境の要塞都市ブレダにおいて、イザーク・ベークマンという、医者でありながら自然学者・数学者としての幅広い知識をもつ人物に出会う。ベークマンは、原子・真空・運動の保存を認める近代物理学に近い考えを持っていた。コペルニクスの支持者でもあった。ベークマンは青年デカルトの数学の造詣の深さに驚き、そしてデカルトは、感化されるところまではいかないものの、学院を卒業以来久しい知的な刺激を受けた。このときの研究の主題は、物理学の自由落下の法則・水圧の分圧の原理・三次方程式の解法・角の三等分のための定規の考案などである。処女作となる『音楽提要』はベークマンに贈られる。 1619年4月、三十年戦争が起こったことを聞いたデカルトは、この戦いに参加するためにドイツへと旅立つ。これは、休戦状態の続くマウリッツの軍隊での生活に退屈していたことも原因であった。フランクフルトでの皇帝フェルディナント2世の戴冠式に列席し、バイエルン公マクシミリアン1世の軍隊に入る。 1619年10月からノイブルクで炉部屋にこもり、精神力のすべてをかけて自分自身の生きる道を見つけようとする。そして11月10日の昼間に、「驚くべき学問の基礎」を発見し、夜に3つの神秘的な夢をみる。
※この「遍歴時代」の解説は、「ルネ・デカルト」の解説の一部です。
「遍歴時代」を含む「ルネ・デカルト」の記事については、「ルネ・デカルト」の概要を参照ください。
- 遍歴時代のページへのリンク