三次方程式の解法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/30 04:35 UTC 版)
「シピオーネ・デル・フェッロ」の記事における「三次方程式の解法」の解説
シピオーネの時代の数学者は、三次方程式は次の3つのうちいずれかの形に帰着できることを知っていた。 x 3 + m x = n {\displaystyle x^{3}+mx=n} x 3 = m x + n {\displaystyle x^{3}=mx+n} x 3 + n = m x {\displaystyle x^{3}+n=mx} つまり、 x 2 {\displaystyle x^{2}} の項は、適切な処理によって消去できた。また、当時は負の数は使われていなかったため、係数 m {\displaystyle m} と n {\displaystyle n} はともに正である。負の数を用いると、次のただ1つの式に帰着する。 x 3 + m x + n = 0 {\displaystyle x^{3}+mx+n=0} シピオーネがルカ・パチョーリの影響を受けていたのかははっきりしない。パチョーリは1501年から1502年までボローニャ大学で教え、シピオーネと数々の数学の議論をしたことは分かっている。彼らが三次方程式の解法に関する議論をしたのかどうかは分からないが、パチョーリが7年前に著した有名な論文ma de arithmetica, geometrica, proportioni et proportionalitaにはこのことが含まれている。 パチョーリがボローニャを訪れた後、シピオーネは3つの場合の式を解いた。1925年、16世紀の文書が発見され、その中にシピオーネの解法が含まれていた。カルダーノは1545年に出版された著書Ars Magnsの中で、三次方程式の解法を最初に見つけたのはシピオーネだと述べ、「デル・フェッロの解法」と名づけた。
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三次方程式の解法
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「ニコロ・フォンタナ・タルタリア」の記事における「三次方程式の解法」の解説
タルタリアは、今日ではジェロラモ・カルダーノとの対立でよく知られる。タルタリアは1535年ごろ三次方程式の解法を発見したといわれ、この解法をタルタリアに断りなく発表したカルダーノとの間に争いが生じた。 1535年、三次方程式の数学試合で有名になったタルタリアの元に解法を教えてほしいという人が殺到していた。カルダーノは、出版しないことを条件にタルタリアの三次方程式の解法を伝授された。数年後、独力でタルタリアと同じ解法に辿り着いたシピオーネ・デル・フェッロの未発表の論文を弟子のルドヴィコ・フェラーリと共に目にした。その未発表論文はタルタリアのものより前に書かれていたため、カルダーノは約束は無効と判断し、1545年にニュルンベルクで発表された著書『偉大なる術(アルス・マグナ)』に載せた。カルダーノが自分の名前で解法を発表したことを知り、タルタリアは激怒した。 フェッロとタルタリアの発見であることを明記した上での公表だったものの、タルタリアの怒りは収まらず、タルタリアは数学の公開試合を申し込む。しかし、カルダーノはこれを受けず、代わりに弟子のフェラーリと試合を行うことになった。勝敗については諸説あり、フェラーリが大勝した説やフェラーリの遅刻で無効試合になった説などがある。現在、三次方程式の解法は「カルダノの公式」と称されている。
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