記録と拓本
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/04 14:51 UTC 版)
本墓誌について記す最初の文献は伊藤東涯の『輶軒小録』で、これは享保年中に著されたと思われるため出土時にごく近接する時期の記録として貴重である。次いで寛政3年(1791年)刊の秋里籬島『大和名所図会』や同7年刊藤貞幹『好古小録』等がこれに触れ、文政元年(1818年)には棭斎が『古京遺文』を著して紹介し、その他拓本に添えられた識文や跋文等も記録として参考になる。 その拓本には現存するものを含めて数本が知られ、大きく現物から直接墨拓したもの(真本)と、現物乃至は真本を元に模刻したもの(模本)とに分けられる。真本には市河寛斎旧蔵のものや、五條の医者であった小林金芝(道隆)が文化11年(1814年)に手拓したという小杉榲邨旧蔵のもの等が知られているが、これら真本は墨拓すべき現物が下述するように再埋納されるとともに誌文は真備の真筆であるとの説が行われて貴重視されたため、代わって模本が世に流布する事となる。この模本には奈良の沢元珉の手になるものや、立原翠軒が水戸の巌田健久に造らせたもの(識文が添えられるが、そこには下述する延享の再発掘時と思われる状況が記されている)、上記金芝が製作したもの等が知られるが、現物の実見者が現物から手拓し、それを模刻したものが盛んに刷られたらしく、翠軒や金芝も同好の士に頒っている。上記の中、特に元珉の模本は現物と同種の塼に刻まれたものと見られ、その塼は墓誌に伴出したものである可能性があるために注目される(後述)。 また、大正の木崎愛吉編『大日本金石史』(大正10年(1921年)刊)はこれら著作や拓本に見る記録を集成して紹介している。
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