記録と生涯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 14:40 UTC 版)
江戸時代に旗本柴田家から提出された家譜に基づいて編纂された『寛永諸家系図伝』(以下『寛永譜』)および『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)によれば勝家の養子(実父は不明)で、通称「権六」(諱は不明)として兄弟の先頭に掲載されている。『寛政譜』編纂時に提出された家譜では、幼名が「於国丸」、通称が「権六郎」で、「勝敏」とも名乗ったという。 養子説では、母は勝家の妹とされる。実子とする見解もある。後述の通り天正11年(1583年)に16歳で没したとするならば、永禄11年(1568年)生まれとなる。天正9年(1581年)に北ノ庄を訪問したルイス・フロイスが、人々が「勝家を上様と称し、勝家の子を殿様と呼んでいる」と伝えているが、和田裕弘はこの勝家の子を「権六」のこととしている。 滝川一益の娘が妻になったとされる。和田裕弘は、フロイスの書簡に「信長の娘が勝家の嫡子に嫁いだ」とあるのは、滝川一益の娘が信長の養女となったのであろうとする。 賤ヶ岳の戦いでは、突出した佐久間盛政を説得するために勝家から派遣された。その後、秀吉軍の攻撃を受けて捕らえられたという。 天正11年(1583年)5月12日に斬られ、16歳で没したという。『寛政譜』では、16歳で京都において自殺とあるが、時期の記載はない。
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