記録と実在
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 12:13 UTC 版)
平家物語などの軍記物語や古記録の中に戦場で活躍する武器としてしばしば登場する。 治承・寿永の乱について書かれた軍記物語である『源平盛衰記』には、畠山重忠が用いた太刀として「身巾四寸(約12cm)長さ三尺九寸(約120cm)」の太刀である「秩父がかう平」や武蔵国綴党の大将である太郎、五郎の兄弟が帯刀していたという「四尺六寸(約140cm)の太刀に熊の皮の尻鞘入」が記述されており、当時既に三尺を超えるものがあったことが伺われる。 時代が下って『太平記』には、五尺以上の太刀が多く記述され、最大で九尺三寸(約282cm)のものが描写されている。五尺(約150cm)の大太刀二振を佩き、更に手には刃長八寸の大斫斧(まさかり)を持って参陣したという長山遠江守(ながやま とおとうみのかみ)や、五尺六寸(約170cm)の大太刀を携えて勇戦したという大高重成、七尺三寸(約221cm)の大太刀を振るって奮戦したという山名の郎党である福間三郎の描写からは、長寸の大太刀が実際の戦闘で使われていた状況が推察できる。 南北朝時代には大太刀に象徴されるように太刀が薙刀と共に戦乱の中で大いに活躍した。 室町期の作で備州長船法光という大太刀があり、総長377.6cm,刃長226.7cmという長大なものであるが、歴史学者の近藤好和が実際に手に取ってみたところ、意外に持ちやすく、十分に実戦使用可能だという。近藤は大太刀・大薙刀を実際に手に取った経験から長寸の太刀でも反り具合や柄の状態などの微妙な調整で手持ちはよくなるものだとしている。 室町時代の僧である一休宗純は自身の背丈よりも長い朱塗鞘の大太刀を腰に差し、こじり(鞘の先端)を引き摺りながら街を歩いた、という逸話が『一休和尚年譜』他の伝記にある。この大太刀は刀身は木製(竹光)で、「鞘に納めていれば豪壮に見えるが、抜いてみれば木刀でしかない」と、外面を飾ることにしか興味のない当時の世相を批判したものであったとされる。大太刀を携えた一休宗純の姿は「一休和尚像 自賛 伝曾我墨渓筆」に描かれて現代に伝えられている。 戦国時代には、朝倉氏や長尾上杉氏が「力士隊」と呼ばれる巨躯巨漢の者を集めた部隊を編成し、大太刀を持たせて戦わせたことが記録されている。朝倉氏の家臣である真柄直隆、真柄直澄の兄弟は、共に戦場で五尺三寸(約175cm)の大太刀を用いて奮戦し、両名ともに姉川の戦いで討ち取られたものの、その大太刀は「太郎太刀」「次郎太刀」の名で現在に伝えられている。 江戸時代には農民だったが高身長という理由で士分を与えられた岡田藩の小田大三郎は、6尺を超す体躯に合わせ五尺四寸という特注の太刀を与えられたという記録がある。 現在でも、神社への奉納品や、徳川家などで所蔵されていた個人所蔵品が徳川美術館(柳生の大太刀)、渡辺美術館、刀剣博物館などの博物館に納められたもの等が少数ではあるが現存している。重要文化財に新潟県の弥彦神社が所蔵する七尺四寸二分(約225cm)の大太刀がある。 新古刀通じて最長の大太刀は、山口県下松市花岡八幡宮所蔵の「破邪の御太刀」(刃長345.5cm、全長465.5cm、75kg)である。これは幕末の尊皇攘夷思想を背景として、氏子が南朝方の刀匠であった延寿派の末裔である延寿国村二十七代国綱(後、国俊と改銘)に特注した奉納刀である。砂鉄300貫を用い、川を堰きとめ焼き入れを行う等、大太刀製作に纏わる逸話が残されている点でも貴重である。
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