下道圀勝圀依母夫人骨蔵器との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/04 14:51 UTC 版)
「楊貴氏墓誌」の記事における「下道圀勝圀依母夫人骨蔵器との関係」の解説
下道圀勝圀依母夫人骨蔵器が発見されたのは元禄12年(1699年)で、被葬者が女性である点や銘の構文が本墓誌と類似するが、備中国庭瀬藩藩主板倉昌信はその出土を顕彰して『吉備公太夫人古冢記』を撰述せしめており、それは本墓誌出土の半年前、享保13年2月の事なので、それが本墓誌「出土」の契機になった可能性がある。なお、明治初年(19世紀後葉)の事であるが、下道圀勝母夫人の古墓の近くからは墓誌断片の塼が出土しており、その塼は上述の東三成発掘の古墓から出土した塼と焼成、胎土、色程、大きさが完全に一致し、かつ明らかに後世の偽刻になるものなので、或いは下道圀勝母夫人の古墓周辺から出土した塼が流出し、当該墓誌はそれに偽刻されたものである可能性がある。それは本墓誌に伴出したという塼が明治の調査では1枚も残されていなかった理由が各方面に持ち出された結果である事を推察せしめ、実際にその1枚に模刻したと思われる模本も存在する(上記元珉の模本)ため、本墓誌が伝楊貴氏古墓から出土した塼の1枚に偽刻されたものであるとの疑いが濃厚となる。以上を要するに、本墓誌と下道圀勝母夫人の古墓及びその近くから発掘された楊貴氏古墓の復元の参考となる古墓、更に同じくその付近から出土した偽刻による墓誌との関係には注意が必要とされる。
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