疑点さまざま
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/04 14:51 UTC 版)
本墓誌についてはいくつかの疑いがもたれている。まず出土状況の異同であるが、これは発掘と埋納を繰り返した事に起因する伝承の混乱であると見て暫く措くとして、その他の疑点を挙げると以下のようになる。 材質 塼(または瓦)について、現存する遺物で塼に墓誌を刻んだ例としては大阪府太子町から出土した延暦3年(784年)の紀年を有する紀吉継墓誌が知られるのみで、墓誌の材として当時は珍しいものと思われる。但し、墓誌には蔵骨器等に墨書されたものもあったと想定され、塼に墨書されたものが遺存していないだけという事も考えられるので、材質自体を不審とすべきではないが、紀吉継墓誌が塼として焼成される前に篦などで予め刻んだと推定されるのに対し、拓本から見た限りでは本墓誌は焼成後に刻まれたものらしく、出土した上代の塼を使って偽刻した例もあるので、その判断には慎重さを要する。 形状 墓誌には後世の墓に建てられる立て札としての墓碑と共通の思想に基づいて作成された可能性が指摘でき、事実、現存する墓誌は初め縦長の短冊状で、時代が降ると伴に方形に近づくが、横長の形状は本墓誌を唯一とする。 以上から天平時代のものとしては材質・形状ともに特異であると言える。 銘文 「天平十一年八月十二日記 / 歳次己卯」とあるが、年月日の後に歳次(干支)を記す例は当代の記録に見えず、また「記」と一旦文を閉じた後にその歳次が現れる点も気に掛かり、この2行には字形の違いも見られるため、これは「記」まで刻んだ後に「歳次己卯」の4文字が追刻されたと見られる。そこでこの4文字を除くと今度は銘文全体が右に偏ったものとなり、字配りの点で予め銘文を決定していたというよりも、「天平十一年八月十二日記」と刻んだ後に追って刻まれた可能性があり、やや杜撰である。 下道圀勝圀依母夫人骨蔵器との関係 下道圀勝圀依母夫人骨蔵器が発見されたのは元禄12年(1699年)で、被葬者が女性である点や銘の構文が本墓誌と類似するが、備中国庭瀬藩藩主板倉昌信はその出土を顕彰して『吉備公太夫人古冢記』を撰述せしめており、それは本墓誌出土の半年前、享保13年2月の事なので、それが本墓誌「出土」の契機になった可能性がある。なお、明治初年(19世紀後葉)の事であるが、下道圀勝母夫人の古墓の近くからは墓誌断片の塼が出土しており、その塼は上述の東三成発掘の古墓から出土した塼と焼成、胎土、色程、大きさが完全に一致し、かつ明らかに後世の偽刻になるものなので、或いは下道圀勝母夫人の古墓周辺から出土した塼が流出し、当該墓誌はそれに偽刻されたものである可能性がある。それは本墓誌に伴出したという塼が明治の調査では1枚も残されていなかった理由が各方面に持ち出された結果である事を推察せしめ、実際にその1枚に模刻したと思われる模本も存在する(上記元珉の模本)ため、本墓誌が伝楊貴氏古墓から出土した塼の1枚に偽刻されたものであるとの疑いが濃厚となる。以上を要するに、本墓誌と下道圀勝母夫人の古墓及びその近くから発掘された楊貴氏古墓の復元の参考となる古墓、更に同じくその付近から出土した偽刻による墓誌との関係には注意が必要とされる。 楊貴妃と楊貴氏 上述延見寺について、楊貴氏はこの寺で晩年を送ってそこで死去したために境内に営墓し、後に寺もろともに埋没したという伝えがある。一方、日本各地に安史の乱を逃れた楊貴妃が流着したとの伝承を持つ地があり、山口県大津郡白津具村(現長門市油谷)の旧家八木家には楊貴妃が同村に漂着して死歿し、その子孫が「楊貴妃」に因んで「八木」を家名としたとの伝があり、それは中世以後に楊貴妃漂流譚が発生し、八木氏の起源をその漂流譚に附会させたものと思われるので、延見寺の「老後の楊貴氏」も実は「老後の楊貴妃」で、同寺に楊貴妃漂流に関する伝承があり、更に当地に八木氏が居住した記憶があったために「八木氏」と「楊貴妃」を関連づけて説かれるようになった伝承ではないかとの憶測ができる。また、上述のように「楊貴氏」の好字と「楊貴妃」とは無関係の偶然としか解せないのであるが、そう見るには「なにか割りきれぬ点もある」。
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