アポリア
(疑惑法 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/03 12:30 UTC 版)
アポリア(希: ἀπορία, aporia、「行き詰まり」「問題解決能力の欠如」「困惑」「当惑」の意味)は、
哲学
哲学において、アポリアは哲学的難題または問題の中の一見解明できそうにない行き詰まりのことで、もっともらしいが実は矛盾している前提の結果として生じることが多い。さらにアポリアは、そうした難題・行き詰まりに困惑させられた、つまり途方に暮れた状態のこともいう。アポリアの概念はギリシア哲学の中に見られるだけでなく、ジャック・デリダの哲学の中でも重要な役割を果たしている。
プラトンの初期の対話篇は、最後がアポリアで終わることから、アポリア的な対話篇と呼ばれることが多い。ソクラテスは徳や勇気といった概念の性質や定義について対話者に質問する。それからソクラテスは反対論証的な試問を通して、対話者にその答えが不十分であることを示す。多くの試みが失敗した後で、対話者は検討してきた概念についてアポリアの状態に陥り、そのことについて何も知らないことを認める。プラトンの『メノン』(84a-c)で、ソクラテスは人をアポリアに陥らせることから解消する有効な方法を叙述する。それを何かを知っていると思っている人に、本当は知らないのだということをわからせ、その人にそれを研究したいという欲望を注ぎ込むことである。
アリストテレスの『形而上学』では、アポリアは探求の方法の役を演じる。アプリオリな法則から始まる合理主義哲学の探求やタブラ・ラーサから始まる経験論の探求とは対照的に、アリストテレスは『形而上学』の中で、とくに先人たちの頭を悩ませたものから引き出した、さまざまなアポリアを概観することによって、自身の探求を始める。アリストテレスはこう主張する。「我々が探求している科学を目的として、まず最初に論じなければならない問題を最初に述べることが必要である」(995a24)。「形而上学」β巻はアポリアのリストである。
修辞学
修辞学のアポリアは、話し手が自らの立場について(多くの場合は偽りの)疑念を示したり、聴衆に対して「どのように話を進めるべきか」と問いかけたりする修辞技法である。疑惑法(dubitatio)とも呼ばれる。その目的の一つは、話し手の対立相手の信用を落とすことかもしれない。たとえば、次のようなものである[2]。ここでデモステネスは疑惑法により、対立相手(アイスキネス)の父親がかつて奴隷だったことを持ち出し、母親の売春を暗示することで、アイスキネスの社会的信用を落としている。
私は、君と君の家族について語るべきことに困っているわけではない。だが、どこから話し始めるべきか迷っている。まず話すべきなのは、君の父トロメスが、テセウス神殿の近くで小学校を開いていたエルピアスの家で奴隷として働いており、その足には足かせが、首には木製の枷がはめられていたことだろうか?
それとも、君の母が隣家の骨接ぎ職人ヘロスの小屋で、日中から“結婚生活”に励み、そのおかげで君が舞台で活躍し、小さな役柄で卓越した才能を発揮するようになったことだろうか? — デモステネス『冠について』(On the Crown)129
参考文献
- Smyth, Herbert Weir (1920). Greek Grammar. Cambridge MA: Harvard University Press, p. 674. ISBN 0-674-36250-0.
- Vasilis Politis (2006). "Aporia and Searching in the Early Plato" in L. Judson and V. Karasmanis eds. Remembering Socrates. Oxford University Press.
脚注
- ^ 佐藤信夫他『レトリック事典』(大修館書店)
- ^ Demosthenes, On the Crown, section 129
関連項目
外部リンク
- 『アポリア』 - コトバンク
- アポリア - archive.today(2013年9月17日アーカイブ分) - Yahoo!百科事典
- アポリア - Weblio
疑惑法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 14:23 UTC 版)
詳細は「アポリア」を参照 曖昧とした論述を意図的に用いる手法。きっぱりとした回答を嫌うときのほか、結論を持たずとも、特定の対象を強く印象付けたい時にも用いられる。ためらいの文法に含まれるとされ、佐藤信夫他『レトリック事典』では主として5つの用例がある。 不的確な客観表現による疑惑法の用例 大人と呼ぶにはまだあどけない、でも子供と呼ぶには逞しい、少年はそんな風格が漂っていた。同様の事柄を二つ並べることによって、作者が本当に形容したい間の表現を確立させようとしている。したがって、この二つのいずれが欠けても、文章が成立しない。 不的確な主観表現による疑惑法の用例 試験の結果は早く知りたいし、知りたくもない。これは主語の人物の心のジレンマであり、おそらく「知りたくない」ということは自信がないと窺える。しかし、実際どのくらい得点したのかを知りたいのも事実である。 複数評価による疑惑法の用例 スポーツで大事なのは攻撃か防御か、攻撃が大事とも言えるし、防御が大事とも言える。疑惑法には比較表現の優劣を付けたくない場合に用いることが多い。おそらく、相手は白黒付けた結論を望んでいるはずだが、主語の人物は答えをはぐらかしているだけである。それが結果的に人それぞれの様々な評価に委ねられるものであると結論づけている。 自己否定を伴った疑惑法の用例 子供の頃住んでた田舎が懐かしく、ふと思い出す。すごい田舎で、交通も不便で、近くに店は一つもなく、実家のボロ家は雨漏りなんかもしょっちゅうだったが…。後半だけだと子供の頃暮らしていた田舎に対する愚痴だけしか捉えられないが、それを敢えて大人になった今、思い出として蘇らせていることで、負の側面を相殺して余るほどの強い感情を読者に訴えかけている。だが、具体的に子供の頃の田舎の何が良かったのか、作者の中でも感情が漠然としているため、反語のように自己否定が込められた文面になっており、また捉えようによっては本当に田舎の生活が良かったのか自問自答する内容とも受け取れる。 自意識の強い疑惑法の用例 そいつは、すっとぼけた奴だけど、いつも近くにいて、俺の傍で笑ってくれるんだ。前述した、特定の対象を強く印象づける方法。これは主語の人物が相手に対し、好意を持った人物を暗に仄めかしているが、本人は自意識過剰気味に相手に対して特定の対象を強く訴えているのが読み取れる。
※この「疑惑法」の解説は、「修辞技法」の解説の一部です。
「疑惑法」を含む「修辞技法」の記事については、「修辞技法」の概要を参照ください。
- 疑惑法のページへのリンク