下軍の佐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 14:24 UTC 版)
智罃は晋への帰国後、捕虜の汚名をそそぐべく、大夫としての活動を再開し、後に荀首の後を継いで、智氏当主となる。 紀元前583年に趙武(趙文子)が韓厥(韓献子)の支援で趙氏を再興し、智罃の所へ成人の挨拶に来た時には、「あなたはもっと努力しなさい。趙宣子(趙盾)の忠節と趙成子(趙衰)の徳によって君に仕えれば、必ず成功するでしょう。」との祝辞を与えた。 紀元前578年5月、智罃は秦軍討伐の為に下軍の佐に登用され、麻隧の地で秦軍を撃退して、見事に期待に応えた。 紀元前575年に起きた鄢陵の戦いの際、智罃は留守を命じられ、以前の約束通り共王と戦うことはできなかったが、別働隊として楚に与力した陳と蔡を討った。
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