紀勢線の建設、国有化へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 15:40 UTC 版)
1933年7月に紀勢線建設推進のため新宮鉄道を国有化すべく、社長の松江武二郎より鉄道大臣あてに買収の請願が行われた。紀勢鉄道建設は1910年(明治43年)第26回帝国議会に山口熊野、尾崎行雄ら和歌山県、三重県選出の代議士により提出され第27回、第28回と続けて衆議院を通過したものの、すべて貴族院で否決されていた。ようやく1919年(大正8年)、第41回帝国議会の協賛を得て、1919年度から10カ年計画で着工されることとなった。東西両端から建設することになり、まず1920年(大正9年)東線第一工区の相可駅 - 栃原駅間の着工により紀勢線の第一歩となった。一方、西線は1921年(大正10年)第2工区の紀三井寺駅 - 加茂郷駅間が着工された。紀勢東線は1923年、相可口駅 - 栃原駅間が開通。紀勢西線は1924年(大正13年)和歌山駅 - 箕島駅間が開通。以降両線は、延伸都度開業を繰り返した。しかし、時の政権の事情により建主改従か改主建従に目まぐるしく方向が変わり、新宮まではなかなか到達しなかった。関東大震災後の加藤高明内閣は改主建従であり、紀勢線の完成予定年度は1929年(昭和4年)から1935年(昭和10年)へ繰り延べられてしまう。1928年(昭和3年)、田中義一内閣の小川平吉鉄道大臣が紀州入りの際に「新宮中間起工ならできる」との発言もあったが、次の濱口内閣は不況による緊縮財政のため完成予定年度が1935年から1941年(昭和16年)へと再度繰り延べられてしまった。 こうした状況に対し、地元では新宮中間起工の速成運動を繰り返していたが、ようやく1932年(昭和7年)10月に紀伊勝浦駅 - 串本駅間が着工した。こうして先の松江社長の買収請願をうけて1934年(昭和9年)第65回帝国議会に新宮鉄道ほか3鉄道買収に関する法律案が政府より提出された。3月27日法律第16号により買収されることになり、7月1日、国有化され、紀勢中線となった。買収価額は243万3622円(交付公債額254万2375円)職員91人が大阪鉄道局へ引き継がれた。
※この「紀勢線の建設、国有化へ」の解説は、「新宮鉄道」の解説の一部です。
「紀勢線の建設、国有化へ」を含む「新宮鉄道」の記事については、「新宮鉄道」の概要を参照ください。
- 紀勢線の建設、国有化へのページへのリンク