新宮鉄道
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新宮鉄道(しんぐうてつどう)は、和歌山県新宮市と東牟婁郡勝浦町(那智勝浦町)を結ぶため建設された鉄道路線及びその運営会社である。1934年(昭和9年)に国有化され、現在の西日本旅客鉄道(JR西日本)紀勢本線の一部(新宮駅 - 紀伊勝浦駅間)となった。
注釈
- ^ 発起人12人のうち7人は前回申請の発起人『日本国有鉄道百年史』第6巻、546頁
- ^ 大阪商船は1899年(明治32年)に大阪田邊線を三輪崎まで延航して大阪三輪崎線として就航。1911年(明治44年)には大阪三輪崎線が田邊止まりになると同時に大阪三輪崎急航線を開始した『大阪商船株式会社五十年史』大阪商船、1934年、174-175頁
- ^ 三輪崎町は計画時から町の繁栄が奪われるとして鉄道建設反対の声があった『新宮鉄道の設立過程』20頁
- ^ 大阪商船は1927年大阪勝浦線にディーゼル貨客船「那智丸」「牟婁丸」を就航させ、1928年(昭和3年)6月に瀞探勝、熊野巡り、翌年3月那智見物などモデルコース、日程プランのパンフレットを作成し観光振興に取り組んでいた。『和歌山県史』近現代2、87-88頁
- ^ 那智村も競願したが却下された「那智鉄道競願問題」大阪朝日新聞 紀伊版 1919年12月27日神戸大学附属図書館新聞記事文庫
- ^ 大阪商船社長、政友会の中橋徳五郎の紀州航路防衛が影響してとみられる『日本の地方鉄道網形成史』190頁
- ^ 1936年(昭和11年)新宮鉄道が決算を水増して買収価格をつり上げたことが発覚し、元重役や鉄道省監督局の職員が贈収賄の罪に問われた事件が起きている。『東京朝日新聞』1936年12月16日「監督局両氏 新宮鉄道疑獄で連行」、1938年6月10日「新宮鉄道疑獄に判決」、1938年11月29日「新宮鉄道疑獄控訴判決」
- ^ トンネルの一部は国道として再利用されていたがのちに廃道になった『鉄道廃線跡を歩く6』、110頁
- ^ 蒸気動車。急勾配があるため採用を取り消した。湯口徹『日本の蒸気動車』(上)ネコパブリッシング、2008年、11頁、『新宮鉄道の設立過程』21頁
- ^ 1917年(大正6年)2月1日改称「軽便鉄道停留場名改称」『官報』1917年2月6日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 1938年(昭和13年)に宮松金次郎が訪問しており,、勝浦湾で陸揚げされているボギー客車の写真を掲載している「紀勢中線」『鉄道ピクトリアル』No.97、36-39頁
- ^ 紀勢中線を走行している元佐久鉄道キハ40305の写真が掲載されている。牧野俊介 『岡山より汽車を求めて 下巻』1981年、 プレス・アイゼンバーン82頁
- ^ 増備の理由は1・2・4号機の老朽化、3号機は小型機のため非力である、さらに乗合い自動車との対策として速度向上、運転回数の増加のため必要であるとした。No.22「機関車設計ノ件」『第一門 二 地方鉄道 イ免許 新宮鉄道 巻五』
- ^ 阪鶴鉄道3→高野鉄道3→南海鉄道3→日本電力庄川水力電気3
- ^ 谷口、白土は廃車両の再生ではないかと推定している。一方第4回営業報告書には神戸市の商社よりドイツ製の車輪、スプリング、鋼材など購入したとの記述がある
- ^ 南海鉄道では喫茶室があり、コンロ、冷蔵庫が備付であった。「南海の二軸客車」83頁
- ^ 申請以前の大正13年上期営業報告書にロ2購入の記録がある
- ^ 1928年(昭和3年)に廃車した伊勢鉄道(伊勢電気鉄道)ホハ21・ホハ22を新製扱いで設計認可申請したとみられる。湯口徹「私鉄のボギー客車」『RAILFAN』No.736
- ^ 秩父鉄道から譲受した2軸客車2両(ハ19・ハ21←ハ9・ハ11)は鉄道省に引き継がれていない。1924年下半期(第29回営業報告書)以降にハ9・ハ11の車両補修記録がなく鉄道統計書(1932年度)に客車残が20両から18両に減少していることから、この時期に廃車されたとみられるが、鉄道省文書や営業報告書に該当の記録が見当たらない
- ^ 関東鉄道所蔵の竣工図では製造年不明日本車輌東京支店製とある。白土貞夫「関東鉄道竜ケ崎線―龍崎鉄道・鹿島参宮鉄道竜ケ崎線―(下)」 ネコ・パブリッシング、2013年、22-23頁
- ^ 戦前大阪にあった工場で登記上は加藤車両製作所。加藤製作所とは無関係。湯口徹「私鉄のボギー客車」『RAILFAN』No.735
出典
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- ^ a b 『那智勝浦町史』下巻、304頁
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- ^ 「新宮鉄道の設立過程」16-17頁
- ^ a b c 『日本国有鉄道百年史』第4巻、547-548頁
- ^ 「私設鐵道株式會社假免狀失效」『官報』1902年2月20日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『新宮市史. 史料編 下巻』368-369頁
- ^ a b c d e f g h i j k l 『新宮市史. 史料編 下巻』、378-380頁
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- ^ a b 『日本国有鉄道百年史』第9巻、644頁
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- ^ 『日本の地方鉄道網形成史』189-190頁
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- ^ 『日本の地方鉄道網形成史』201頁
- ^ 『日本国有鉄道百年史』第9巻、98-102頁
- ^ 『日本の地方鉄道網形成史』296頁
- ^ a b 『日本国有鉄道百年史』第9巻、101-102頁
- ^ 「買収私鉄決定す秋田、佐久、簸上、新宮の四線」大阪朝日新聞 1933年11月9日神戸大学附属図書館新聞記事文庫
- ^ 「法律第十六号」『官報』1934年3月27日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『日本の地方鉄道網形成史』304頁
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- ^ 「鉄道省告示第271号」『官報』1935年7月10日(国立国会図書館デジタルコレクション)
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- ^ 「鉄道省告示第170・171・172号」『官報』1940年8月3日(国立国会図書館デジタルコレクション)
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- ^ 「私設鉄道株式会社仮免許状下付」『官報』1909年5月18日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『日本全国諸会社役員録. 明治44年』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『人事興信録. 4版』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「軽便鉄道指定」『官報』1910年12月26日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1912年12月10日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1913年3月7日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「輕便鐵道停留場設置」『官報』1913年4月26日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『人事興信録. 7版』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 材木商『日本全国商工人名録』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「鉄道免許状下付」『官報』1920年8月14日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「地方鐵道驛設置」『官報』1925年3月26日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「鉄道免許失効」『官報』1926年4月8日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ No.56「社長変更並新株増加払込登記完了届ノ件」『第一門 二 地方鉄道 イ免許 新宮鉄道 巻五』
- ^ 『日本全国諸会社役員録. 第42回(昭和9年)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ No.75「解散登記結了届ノ件」『第一門 二 地方鉄道 イ免許 新宮鉄道 巻五』
- ^ 「鉄道省告示第281・282号」『官報』1934年6月26日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「鉄道省告示第74・75号」『官報』1938年4月20日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『新宮市史』資料編、382頁
- ^ 『紀州熊野遊覧案内』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『和歌山県統計書. 昭和8年』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 中川浩一「紀勢本線の系譜」『鉄道ピクトリアル』No355、13頁
- ^ 「鉄道省告示第179号」『官報』1937年5月31日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『汽車汽船旅行案内』大正4年3月号『復刻版明治大正時刻表』新人物往来社、1998年
- ^ 『汽車時間表』昭和5年10月号『時刻表復刻版戦前戦中編』JTB、1999年
- ^ 『懐かしの新宮鉄道』21頁
- ^ a b c 新宮鉄道『営業報告書』47期(昭和8年4月-昭和8年9月)
- ^ 新宮鉄道『営業報告書』40期(昭和5年4月-昭和5年9月)
- ^ 新宮鉄道『営業報告書』42期(昭和6年4月-昭和6年9月)
- ^ 新宮鉄道『営業報告書』43期(昭和6年10月-昭和7年3月)
- ^ 『内燃動車発達史 上巻』213頁
- ^ No.23「車両構造ノ件」『第十門私設鉄道及軌道 三、軽便鉄道 新宮鉄道 巻一』
- ^ No.8「車両譲受改造使用ノ件」『第十門 私設鉄道及軌道 三、軽便鉄道 新宮鉄道 巻三』
- ^ a b c d e f g h i 澤内一晃「南海の二軸客車」『鉄道ピクトリアル』No.835、82-87頁
- ^ No.22「客車譲受並設計ノ件」『第十門 二、地方鉄道 新宮鉄道 巻四』
- ^ 新宮鉄道『営業報告書』25期(大正11年10月-大正12年3月)
- ^ a b c d 吉川文夫「私鉄へ行った国電の始祖(甲武電車)」『レイル』No.38 、プレス・アイゼンバーン、30-37頁
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- ^ 新宮鉄道『営業報告書』23期(大正10年10月-大正11年3月)
- ^ 『鉄道院鉄道統計資料. 大正8年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 新宮鉄道『営業報告書』19期(大正8年10月-大正9年3月)
- ^ 新宮鉄道『営業報告書』37期(昭和3年10月-昭和4年3月)
- ^ No.23「貨車設計ノ件」『第一門 二 地方鉄道 イ免許 新宮鉄道 巻五』
新宮鉄道(現・紀勢本線の一部)
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「買収気動車」の記事における「新宮鉄道(現・紀勢本線の一部)」の解説
1934年の新宮鉄道買収に伴い、ガソリンカー5両(木造4輪車1両、半鋼製ボギー車4両)が承継された。 新宮鉄道は建設予定であった紀勢西線に接続する予定の孤立路線で、他の路線との直通がなかったことから1934年の買収時点でもねじ式連結器(螺旋連結器)が使用されていた(日本では、一般には1925年の一斉交換で自動連結器に標準化がされていた)。このため買収気動車各車もねじ式連結器装備で、大きなバッファー(緩衝器)も備えていた。買収後は紀勢中線となったが、1940年に紀勢西線と連絡して自動連結器切り替えが為されるまでは、国有化後に他地域から搬入された車両も含めて引き続きねじ式連結器が用いられた。 形式は原則として鉄道省形式に改称されているが、唯一の木造車であったキハ201のみ、買収後の早期廃車予定であったことから改称を受けなかった。 キハ201 (1930年 松井車輌製)→鉄道省キハ201 キハ202・203 (1931年 小島栄次郎工作所製)→鉄道省キハ40301・40302202・203の書類上の製造者である小島栄次郎は鉄道用品専門の仲介業者で、実際には松井車輌が下請け製作した。また203は書類名目上1932年9月製となっているが、実際には前年に完成していた。 キハ204・205 (1931年 日本車輌本店製 元・富山鉄道ジハ2・3 1933年譲受)→鉄道省キハ40303・40304
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