会社設立まで
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「ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道」の記事における「会社設立まで」の解説
フィリップ・トーマス(Philip E. Thomas)とジョージ・ブラウン(George Brown)というの二人の人物が、アメリカにおける鉄道のパイオニアである。彼らは1826年(ロコモーション号による世界初の公共鉄道が開業した翌年)に、まだ投機的な存在だったイギリスにおいて鉄道事業を調査した。 当時のアメリカ合衆国東海岸の主要都市のうち、ボストンとニューヨークはエリー運河により五大湖地域へ商圏を拡大し、フィラデルフィアも山越えの運河によりオハイオ川沿いのピッツバーグまで到達していた。しかし、メリーランド州のボルチモアには運河に適した土地がなく、鉄道を用いてオハイオ川に到達することが計画された。 1827年2月12日、ボルチモアの有力者が実業家ジョージ・ブラウンの邸宅に集まり、交通についての協議を行った。2年前の1825年にイギリスで世界初の公共鉄道として開業したストックトン・アンド・ダーリントン鉄道の成功に倣って、鉄道の敷設が決定された。目的地は西方のアパラチア山脈を越えた先のオハイオ州とし、オハイオ川沿いのホイーリングまでの380マイル(611km)を結んでオハイオ川の水運に接続し、ミシシッピ川流域一帯を商圏とする計画であった。 「B&Oに関するメリーランド州法」が2月27日に可決され、3月8日にはバージニア州を通過し、B&O設立の許可が出された。B&Oは4月24日に会社組織化され、アメリカ合衆国中西部から東海岸まで航路の代替とともに最速ルートとなることを目指した。そして、トーマスは初代社長 (president)に、ブラウンは会計役 (treasurer)となった。資本金は500万ドルと計画した。
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会社設立まで
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昔の熊野の交通手段は海路かけもの道しかなかった。明治に入っても海岸線沿いに熊野那智大社参詣のための人力車が通れる程度の道しかなかった。熊野川流域は林業が盛んであり、伐採した木材を筏に組んで流し河口の新宮港より帆船で大阪・東京へ出荷していた。しかし新宮港は砂州で塞がるなど大型船が入港できず支障があり、三輪崎港も碇泊に不便であった。そのため、材木商らにより大型船の入港可能な勝浦港までの鉄道建設計画が度々なされてきた。 まず1899年(明治32年)1月、新宮鉄道発起人辻野惣兵衛に対し、新宮勝浦間鉄道敷設仮免状が下付される。資本金は、東・西牟婁郡の会社のなかで最も大きかった新宮銀行の25万円より多い40万円であった。木材輸送と熊野那智大社への参拝客輸送を目的としたが、木材商の賛同を得られず、本免許の申請を行わなかったため、1902年(明治35年)に失効してしまう。同年には新宮 - 宇久井間を馬車鉄道で結ぶべく測量を始めたが、まもなく中止してしまった。 1907年(明治40年)になり、津田長四郎と新宮水電(1900年(明治33年)開業)の役員らに対し新宮電気軌道鉄道敷設仮免状が下付された。しかし、動力に多額の費用がかかり、主要の貨物輸送に支障があることからこの出願を取り下げて、新たに普通鉄道として出願したのが新宮鉄道株式会社であり、1909年(明治42年)になり仮免許状が下付された。 しかし、資本金60万円の新宮鉄道株式募集は芳しくなく、津田は熊野実業新聞主筆に対し新宮鉄道の株式は満株に近いと宣伝するよう度々命じていたという。こうして株式募集に励んだ結果、総株が引き受けられることになったので、1910年(明治43年)4月27日に新宮鉄道株式会社は設立され、本社は新宮市に置き、社長に津田長四郎が就任した。
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