岩倉宮忠成王
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岩倉宮忠成王(いわくらのみやただなりおう)は、鎌倉時代の皇族。順徳天皇の第五皇子。御称号は六条宮、岩倉宮、広御所宮等。
注釈
- ^ 道家の姉・立子(東一条院)が順徳天皇の中宮、忠成王の義母にあたる。
- ^ 邦仁王の父・土御門天皇は、承久の乱には加わらなかった。
- ^ 『平戸記』寛元3年5月11日条。ただし、『平戸記』に記される「六条宮」について、忠成王ではなく叔父の雅成親王に比定する意見もある[4]。これに対して、曽我部愛は『平戸記』には雅成親王は「但馬宮」と書かれていること、高野山文書『宝簡集』二十「金銅三鈷相伝事書案」に佐渡院(順徳上皇)の三宮を「六条宮」と称したとする注記があるが、一宮に尊覚法親王、二宮に覚恵法親王の注記があるため、彼らの同母弟(藤原清季の娘の所生としては三男)である忠成王を六条宮に比定できるとしている[5]。
- ^ 後嵯峨天皇と皇位を争い、その後も皇位の奪還と順徳上皇系の皇統復活を図っていた忠成王が、後嵯峨天皇及びその子孫(大覚寺統・持明院統)から官位や親王宣下を受ける余地はなかったと考えられる。その反面、順徳上皇系の皇統復活の前提となる修明門院領(元の七条院領や卿局領および四辻御所)の維持には親王の身位が必要であったと推測される。その矛盾の結果、後嵯峨天皇や鎌倉幕府から警戒対象とされて親王宣下が絶望的であった忠成王が皇統及び修明門院領の継承者から外されることになったと考えられている[10]。
出典
[続きの解説]
「岩倉宮忠成王」の続きの解説一覧
- 1 岩倉宮忠成王とは
- 2 岩倉宮忠成王の概要
- 3 脚注
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