岩倉宮忠成王とは? わかりやすく解説

岩倉宮忠成王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/30 05:01 UTC 版)

岩倉宮忠成王(いわくらのみやただなりおう)は、鎌倉時代皇族順徳天皇の第五皇子御称号六条宮岩倉宮広御所宮等。


注釈

  1. ^ 道家の姉・立子(東一条院)が順徳天皇の中宮、忠成王の義母にあたる。
  2. ^ 邦仁王の父・土御門天皇は、承久の乱には加わらなかった。
  3. ^ 『平戸記』寛元3年5月11日条。ただし、『平戸記』に記される「六条宮」について、忠成王ではなく叔父の雅成親王に比定する意見もある[4]。これに対して、曽我部愛は『平戸記』には雅成親王は「但馬宮」と書かれていること、高野山文書『宝簡集』二十「金銅三鈷相伝事書案」に佐渡院(順徳上皇)の三宮を「六条宮」と称したとする注記があるが、一宮に尊覚法親王、二宮に覚恵法親王の注記があるため、彼らの同母弟(藤原清季の娘の所生としては三男)である忠成王を六条宮に比定できるとしている[5]
  4. ^ 後嵯峨天皇と皇位を争い、その後も皇位の奪還と順徳上皇系の皇統復活を図っていた忠成王が、後嵯峨天皇及びその子孫(大覚寺統持明院統)から官位や親王宣下を受ける余地はなかったと考えられる。その反面、順徳上皇系の皇統復活の前提となる修明門院領(元の七条院領や卿局領および四辻御所)の維持には親王の身位が必要であったと推測される。その矛盾の結果、後嵯峨天皇や鎌倉幕府から警戒対象とされて親王宣下が絶望的であった忠成王が皇統及び修明門院領の継承者から外されることになったと考えられている[10]

出典

  1. ^ a b 赤坂, p. 194.
  2. ^ a b 赤坂, p. 195.
  3. ^ a b 赤坂, p. 197.
  4. ^ 赤坂, p. 196.
  5. ^ 曽我部 2021, pp. 221–228.
  6. ^ 『平戸記』宝治3年2月25日条および『葉黄記』同日条
  7. ^ 曽我部 2021, pp. 231–232.
  8. ^ 赤坂, p. 198.
  9. ^ 白根陽子『女院領の中世的展開』同成社、2018年、29-30頁。ISBN 978-4-88621-800-1 
  10. ^ 曽我部 2021, pp. 232–235.


「岩倉宮忠成王」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「岩倉宮忠成王」の関連用語

1
34% |||||

2
30% |||||

3
16% |||||

4
16% |||||

5
14% |||||

6
14% |||||

7
12% |||||



岩倉宮忠成王のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



岩倉宮忠成王のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの岩倉宮忠成王 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS