平氏への接近
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 05:53 UTC 版)
家成は、平忠盛の正室・藤原宗子(池禅尼)の従兄弟であり、忠盛の嫡子・清盛はしばしば家成の邸に出入りするなど両家の関係は親密だった。隆季も平氏と友好関係を築くことで自らの地位の保全を図ろうとした。隆季の妹は清盛の嫡子・重盛の妻となっていたが、隆季も自らの嫡子・隆房の妻に清盛の娘を迎えた。さらに、清盛の娘・徳子の立后に際して中宮大夫に抜擢されるなど親族同様の待遇を受けた隆季は、応保元年(1161年)に参議となってから、検非違使別当・権中納言・中納言と急速に昇進、仁安3年(1168年)にはついに父の極官を越えて権大納言となった。大国受領系の院近臣でありながら「当世の有識」と称されて実務にもすぐれ、後白河院の執事別当に補されて院中の権を執った。 その間の長寛3年(1163年)、興福寺・延暦寺の抗争事件に際して、議定の場で親平氏の延暦寺を支持したことで興福寺の怒りを買い、放氏される(興福寺の強訴の一環として、氏寺・氏社に不利益をもたらした氏人の追放を興福寺別当から氏長者に通告する、追放が解除されない限り朝廷に出仕できない)、異母弟の成親(母は藤原経忠の女)が後白河院の平氏打倒計画に参加して処刑される(鹿ケ谷の陰謀)などの政治的危機もあったが、平氏との友好関係を維持した隆季の立場が揺らぐことはなかった。
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