平氏反撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:57 UTC 版)
規模は縮小されつつあったものの、瀬戸内海の制海権を握る平氏は田口成良の協力のもと屋島に本営を置き、知盛は全軍の総指揮官として体勢の立て直しを図る。閏10月1日、平氏追討の院宣を受けて西国へ下向した源義仲を水島の戦いで破り、京へ追い返した。11月29日の室山の戦いでも源行家を破り、後白河・義仲の対立、源頼朝が派遣した鎌倉軍の上洛など京が混乱する中、勝利に勢いづく平氏軍は福原の東方生田の森、西方の一ノ谷に山陽道を遮断する城郭を構え、清盛の三周忌を前に福原へ集結しつつあった。四面楚歌の義仲は平氏に和睦の使者を送ったが、平氏はこれを拒否している。京奪還を目指して即時上洛を訴える知盛と、それを押し止める宗盛とで口論に及んだという。寿永3年(1184年)1月19日、義仲は上洛した鎌倉軍の手勢によって粟津の戦いで敗死する。 1月26日、平氏は福原に入り、都の奪還を目指して上洛する噂が広まる。朝廷では平氏との和議と追討で意見が二分されるが、後白河院と院近臣ら強硬派の意見によって平氏追討は続行され、29日、源範頼・源義経が在地武士を組織して西国へ向かった。 2月7日、一ノ谷の戦いで知盛は大将軍として生田の森に陣を敷き、源範頼率いる鎌倉方大手軍を迎え撃った。しかし一ノ谷側で搦手の源義経軍の逆落としを受けた平氏軍は混乱に陥り、生田側の軍も撤退して海上に逃れた。この戦いの敗北で平氏は知盛の嫡男知章を初め、一門の有力武将を多数失う甚大な被害を受け、弟重衡は捕虜となった。宗盛が朝廷に送った書状によれば、平氏側は神器の返還をめぐる和平交渉で後白河院から休戦の命を受けていたにも関わらず、鎌倉軍の奇襲を受けたため大敗に及び、平氏軍を油断させる院の奇謀によって多大な被害を被ったという。2月10日、朝廷との間で重衡の身柄と引き替えに神器返還の交渉が行われるが、和平案は成立せず、3月に重衡の身柄は鎌倉へ送られた。
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