平氏政権下での源氏の長老
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 14:48 UTC 版)
頼政は平氏政権下で中央政界に留まり、源氏の長老の位置を占めた。仁安2年(1167年)、従四位下に昇叙。頼政は大内守護として、嫡男の仲綱とともに二条天皇・六条天皇・高倉天皇の三代に仕え、また後白河法皇の武力として活動している。安元3年(1177年)、院近臣の西光と対立した延暦寺大衆が強訴に攻め寄せた時には平重盛らとともに御所の警護に出動している。 歌人として優れていた頼政は藤原俊成や俊恵、殷富門院大輔など多くの著名歌人と交流があったことが知られ、その詠歌は『詞花集』以下の勅撰和歌集に計59首入集しており、家集に『源三位頼政集』が残る。また、晩年は官位への不満をもらす歌が多くなっている。頼政の位階は正四位下だが、従三位からが公卿であり、正四位とは格段の差があった。70歳を超えた頼政は一門の栄誉として従三位への昇進を強く望んでいた。治承2年(1178年)、清盛の推挙により念願の従三位に昇叙した。 『平家物語』によると、清盛は頼政の階位について完全に失念しておりそのため長らく正四位であった頼政が、 のぼるべきたよりなき身は木の下に 椎(四位)をひろひて世をわたるかな — 『平家物語』 巻第四 「鵺」 という和歌を詠んだところ、清盛は初めて頼政が正四位に留まっていたことを知り、従三位に昇進させたという。 史実でもこの頼政の従三位昇進は相当破格の扱いで、九条兼実が日記『玉葉』に「第一之珍事也」と記しているほどである。清盛が頼政を信頼し、永年の忠実に報いたことになる。この時74歳であった。 翌治承3年(1179年)11月、出家して家督を嫡男の仲綱に譲った。
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