平氏敗走
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 15:38 UTC 版)
混乱が波及して平忠度の守る塩屋口の西城戸も突破される。逃げ惑う平氏の兵たちが船に殺到して、溺死者が続出した。 生田口の東城戸では副将の重衡が8000騎を率いて安田義定、多田行綱らに攻められ危機に陥っている夢野口(山の手)の救援に向かった。午前11時頃、一ノ谷から煙が上がるのを見た範頼は大手軍に総攻撃を命じた。知盛は必死に防戦するが兵が浮き足立って、遂に敗走を始めた。 安徳天皇、建礼門院らと沖合いの船にいた総大将の宗盛は敗北を悟って屋島へ向かった。 西城戸の将の忠度は逃れようとしていたところを岡部忠澄に組まれて負傷し、覚悟して端座して念仏をとなえ首を刎ねられた。歌人だった忠度が箙に和歌を残していた逸話が残っている。 合戦の一番乗りの功名を果たした熊谷直実は敵を探していると、馬に乗って海に入り、沖の船へ逃れようとする平氏の武者を見つけて「敵に背を向けるのは卑怯であろう。戻りなされ」と呼びかけた。武者はこれに応じて、陸へ引きかえして直実と組むが、勇士の直実にはとても敵わず、組み伏せられた。直実は首を取ろうとするが、武者の顔を見ると薄化粧をした美しい顔立ちの少年だった。武者は清盛の弟経盛の子敦盛16歳と名乗った(『源平盛衰記』による。『平家物語』では名乗らない)。直実の息子直家も同じ16歳で、憐れに思い逃そうとするが、他の源氏の武者が迫っており、とうてい逃れることはできまいと泣く泣く敦盛を討ち取った。直実は武家の無情を悟り、後に出家して高野山に登った。『平家物語』の名場面である。史実でも直実は敦盛を高野山で供養し、その後出家して法然に仕えている。『吾妻鏡』によると出家の直接の理由は所領を巡る訴訟に敗れた際、梶原景時の言動に怒ったためである。 敗走した平重衡は、梶原景季と庄氏によって捕らえられた。『吾妻鏡』では児玉党の武将である庄太郎家長に、『平家物語』では庄四郎高家に捕らえられたとある(@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}研究者の間では、武功に見合うだけの恩賞を与えられている点から家長説が有力視されている[要出典])。 この敗走で平氏一門の多くが討たれ、平氏は屋島へ逃れて、戦いは鎌倉方の勝利に終わった。
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