平氏政権の誕生
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清和源氏のうち河内源氏は源頼信・源頼義の時代に平忠常の乱(1028年-1031年)を平定したことで朝廷から高く評価された。また、頼義の子源義家は前九年の役(1051年-1062年)や後三年の役(1083年-1087年)を通じて坂東平氏を含む関東地方の武士と主従関係を結び地盤をさらに固めた。しかし、義家は院・朝廷の重用を受けられず、また晩年には河内源氏は分裂してしまい、義家の子で棟梁となった源義忠は叔父源義光に暗殺され、権勢は失墜した。 一方、桓武平氏のうち伊勢平氏(平家)は院や朝廷の重用を受け飛躍的に地位を向上させ、平忠盛の代には正四位上に任じられるなど河内源氏を凌駕した(同時期の源氏棟梁源為義は従五位下)。 12世紀半ばに、都で保元の乱(1156年)、平治の乱(1160年)が起こった。前者は皇位継承問題や摂関家の内紛が原因であり、後者は院近臣らの対立により発生した乱であるが、中央の政治権力の争いが武力で解決されたのは、藤原仲麻呂の乱以来およそ400年ぶりのことであった。保元の乱では忠盛の子平清盛と為義の子源義朝等が為義等を討ち、平治の乱では清盛等が義朝等を討った。これで河内源氏は一旦壊滅する。 両乱に功績のあった清盛は参議に任命され、武士で初めて公卿の地位に就いた。やがて一門からも公卿・殿上人が輩出し、平氏政権が誕生した。現在ではこれを最初の武家政権と見る説が有力である。治承三年の政変(1179年)で後白河法皇の院政が停止され、平家一門は全国のおよそ半分にあたる32カ国を知行国とすることとなった。平氏の知行国の増加は全国各地において国衙権力を巡る在地勢力の混乱を招いた。東国においてはそれまでの旧知行国主のもと国衙を掌握していた在地豪族が退けられ、新たに知行国主となった平氏と手を組んだ豪族が勢力を伸ばすなど、国衙権力を巡る在地の勢力争いは一触即発という状況となった。
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