平氏政権の誕生とは? わかりやすく解説

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平氏政権の誕生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:15 UTC 版)

日本の軍事史」の記事における「平氏政権の誕生」の解説

清和源氏のうち河内源氏源頼信源頼義時代平忠常の乱1028年-1031年)を平定したことで朝廷から高く評価された。また、頼義の子源義家前九年の役1051年-1062年)や後三年の役1083年-1087年)を通じて坂東平氏を含む関東地方武士主従関係を結び地盤をさらに固めた。しかし、義家院・朝廷の重用受けられず、また晩年には河内源氏分裂してしまい、義家の子棟梁となった源義忠叔父源義光暗殺され権勢失墜した一方桓武平氏のうち伊勢平氏平家)は院や朝廷重用を受け飛躍的に地位を向上させ、平忠盛の代には正四位上任じられるなど河内源氏凌駕した同時期の源氏棟梁源為義従五位下)。 12世紀半ばに、都で保元の乱1156年)、平治の乱1160年)が起こった前者皇位継承問題摂関家の内紛原因であり、後者院近臣らの対立により発生した乱であるが、中央の政治権力争い武力解決されたのは、藤原仲麻呂の乱以来およそ400年ぶりのことであった保元の乱では忠盛の子平清盛為義の子源義朝等が為義等を討ち平治の乱では清盛等が義朝等を討った。これで河内源氏は一旦壊滅する。 両乱に功績のあった清盛参議任命され武士初め公卿地位就いた。やがて一門からも公卿殿上人輩出し平氏政権誕生した。現在ではこれを最初武家政権と見る説が有力である。治承三年の政変1179年)で後白河法皇院政停止され平家一門全国のおよそ半分にあたる32カ国を知行国とすることとなった平氏知行国増加全国各地において国衙権力を巡る在地勢力混乱招いた東国においてはそれまで旧知国主のもと国衙掌握していた在地豪族退けられ新たに知行国主となった平氏手を組んだ豪族勢力伸ばすなど、国衙権力を巡る在地勢力争い一触即発という状況となった

※この「平氏政権の誕生」の解説は、「日本の軍事史」の解説の一部です。
「平氏政権の誕生」を含む「日本の軍事史」の記事については、「日本の軍事史」の概要を参照ください。

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