院政・鎌倉期の動向とは? わかりやすく解説

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院政・鎌倉期の動向

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 18:53 UTC 版)

小山田氏」の記事における「院政・鎌倉期の動向」の解説

平安時代後期院政期久寿2年1155年)には源義朝長男義平が伯父にあたる義賢と、小山田有重畠山重能兄弟叔父にあたる秩父重隆殺害した大蔵合戦起こっている。合戦における有重の動向不明であるが、『平家物語』によれば畠山重能は義平勢に属しており、大蔵合戦秩父一族主導権争いとしての性格有し勝利した重能は勢力拡大している。 有重は保元元年1156年)の保元の乱において登場し『保元物語』によれば乱において敗北した源為朝鎮西八郎)が父の為義対し合戦参加しなかった三浦義明畠山重能小山田有重らと談合し関東において抵抗することを提案しているが、ここに挙げられている三者はいずれ為義為朝敵対する義朝方に近く為朝発言三者立場反映しているかどうかの点に関しては慎重視されている。また、保元の乱以前には源義朝藤原信頼立荘携わった武蔵稲毛荘が成立しており、重能・有重兄弟もこれに携わっていると考えられている。 平治元年1159年)、源義朝藤原信頼平治の乱において平氏敗北して滅亡しているが、『平家物語』『愚管抄』において重能・有重兄弟平氏郎等として記されており、このころ重能・有重兄弟平氏方に帰属したと考えられている。『平家物語』によれば治承4年1180年)の以仁王の挙兵に際して重能・有重兄弟在京して平清盛仕えている。続く伊豆における源頼朝の挙兵において重能の子重忠、有重の子稲毛重成らとはじめ平家方に属していたが、畠山重忠治承4年10月秩父氏家督継いでいた河越重頼秩父一族とともに頼朝方に降伏しており、有重の動向不明であるが頼朝帰服したと考えられている。 治承・寿永の乱において有重は頼朝従い東国下向したと見られ、有重の子息は一ノ谷の戦いなど西国へも出陣している。畠山重能動向不明であるが、重能子息の重忠、有重子息稲毛重成榛谷重朝頼朝仕えている。こうして小山田一党秩父党重鎮とし頼朝鎌倉幕府創立に功を立て本領である小山田荘は有重の子息により分割相続されたと見られているが、稲毛荘や重朝の入部した榛谷御厨比定地未詳の「出田」の地や武蔵小沢郷に進出していたと見られている[要出典]。 『吾妻鏡』によれば文治元年1185年10月には頼朝の弟義経後白河法皇と結び頼朝背き同年11月11日には義経の舅である河越重頼所領没収され殺害されている。これにより秩父氏家督畠山重忠継承し、重忠や重成・重朝兄弟秩父一族義経を匿った奥州藤原氏討伐にも参陣している(奥州合戦)。 奥州合戦により治承・寿永の乱集結し頼朝による鎌倉幕府開創されるが、『吾妻鏡』によれば幕府儀礼において重成・重朝兄弟重用されていることが確認される元久2年1205年)、一族畠山重忠の乱巻き込まれてほとんどが粛清された。 鎌倉時代初期にその粛清から逃れた生き残り甲斐入府したと言い承久の乱においては同地から幕府方東山道軍に加わっている。

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