院政期の成功
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成功が盛んになるのは、院政期に入ってからである。11世紀末期以後展開された白河天皇の親政から院政初期にかけて院御所や御願寺の造営が相次ぎ、国宛による諸国の負担だけで賄うことが出来なくなった。また、院近臣である受領は白河天皇(上皇)への私的奉仕と引き換えに受領功過定を通過して重任や遷任を受けることが出来るようになり、受領功過定で本来追及される筈であった済物未進などの中央に対する義務的な進上内容が結果的に不問とされるようになった(当然、済物が規定通りに納められなくなれば、財政収入は不足をきたすことになる)。一方、臨時の進上にあたる臨時召物や造営などの国宛に充てる為に臨時雑役を賦課した場合でも、国内における官省符荘と呼ばれる荘園の増加が円滑な収納を妨げていた。こうした事態の打開を図るために受領成功への財政依存の強化を図ることになった。そんな中で、康和元年(1099年)、近江守藤原隆宗が勢多橋を造営(『本朝世紀』同年10月5日条)し、これが遷任功の最初の例とされている。こうした受領成功の定着は地下の「進納」(地下成功)にも影響を与え、小規模な造営についてはこれまでの費用の進納に代わって実際の造営を命じられるようになり、11世紀末期には「成功」の名称が採用されて手続も受領成功と同じように成功の申請→成功宣旨→費用進納または造営→返抄・覆勘→申文提出→闕官に補任という手続が採られるようになっていった。もっとも、造営が成功で賄えた訳ではない事に注意を要する。例えば、御願寺の造営の場合、大規模な人夫の動員や特定の国の産物を用いる必要がある場合にはその要件に該当する国に対して国宛を行う必要が生じたし、発願者(願主)である天皇や上皇・女院が自ら造営のための財物の寄進を行わなければ、発願の意味がなくなってしまうからである。そのため、別途に目的によっては国宛を諸国に課したり、願主の指揮下にある機関が物資の調達・製作を行ったり、願主の荘園から材料を運ばせて受領に支給したりすることも行われていた。
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