院政期・法住寺殿とは? わかりやすく解説

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院政期・法住寺殿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 14:51 UTC 版)

法住寺 (京都市)」の記事における「院政期・法住寺殿」の解説

保元3年1158年)、後白河天皇譲位し上皇となり、為光が建立した法住寺中心とした地域後白河上皇院御所建築され始めた。これが法住寺殿である。永暦元年1160年)には延暦寺鎮守社ある日吉社を勧請し新日吉社を、上皇信仰している熊野三山から熊野権現勧請し新熊野社法住寺殿域内建立された。永暦2年1161年)に工事完成し上皇法住寺殿に居を移して院政行った法住寺殿敷地は十余町、平家後ろ盾にした上皇権威で、周囲の建物取り壊され広大な敷地北殿上御所北殿下御所南殿の三御所作られた。狭義法住寺殿はこの南殿をいう。南殿には上皇住まいとして藤原信頼邸が移築され、東小御堂千手堂などが立ち並び広大な池もあった。長寛元年1163年)には、蓮華王院三十三間堂)が平清盛寄進南殿北側造立されている。仁安2年1167年)には手狭だった南殿御所新たに建築され、さらに新御堂不動堂建立された。 後白河上皇嘉応元年1169年)に園城寺長吏覚忠を呼んで出家して法皇となり、後に鴨川の東・綾小路の地に比叡山にあった妙法院移転させて法住寺新日吉社をその末寺とし、管理下に置かせ、妙法院門跡寺院綾小路門跡)とした。安元2年1176年)、法皇女御建春門院平滋子)が亡くなると、女御御陵として法華堂建てられた。 法皇平家栄華象徴する法住寺殿ではあったが、寿永2年1183年)、木曾義仲軍勢によって南殿に火がかけられ法住寺合戦)、法皇は北の門から新日吉社へむけ輿にのって逃亡以後法皇六条西洞院長講堂移りそこで生涯をおえた。建久3年1192年)、法皇崩御により、焼失した法住寺殿敷地あらたに法華堂つくられ法皇御陵定められた。この法華堂建春門院法華堂南側にあたり蓮華王院三十三間堂)に対面し二堂並立していたと推定されている。建春門院法華堂14世紀には破損ひどかったという記録があり(『花園天皇宸記』)、現在は、法皇法華堂のみが残っている。

※この「院政期・法住寺殿」の解説は、「法住寺 (京都市)」の解説の一部です。
「院政期・法住寺殿」を含む「法住寺 (京都市)」の記事については、「法住寺 (京都市)」の概要を参照ください。

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