院政再開と追討続行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:38 UTC 版)
清盛の死後、宗盛は「故入道の所行等、愚意に叶わざるの事等ありと雖も、諫争する能はず。只彼の命を守りて罷り過ぐる所なり。今に於いては、万事偏に院宣の趣を以て存じ行うべく候」と表明して、後白河法皇に恭順する姿勢を示した。宗盛の発言を受けて、後白河法皇は公卿議定を開いて追討の中断を決定する。静憲が宗盛に議定の決定を伝えると、宗盛は追討使として重衡を下向させることを理由に、追討のための院庁下文を発給することを要求した。静憲が「それでは話が違う」と抗議すると、宗盛は「頼盛・教盛等の卿を招き相議し、重ねて申さしむべし」と返答した。 このように院政の再開は認めても、清盛が生前に残した惣官体制により軍事的な権限は依然として平氏が掌握していた。3月10日、重衡率いる追討軍は墨俣川の戦いで源行家を破り、美濃・尾張は平氏の勢力下に入った。東国の戦況が好転したことで、宗盛は鎮西反乱の鎮圧に乗り出す。4月10日、宗盛の強い推挙で原田種直が大宰権少弐に補され、4月14日には菊池隆直追討宣旨が下される。しかし、墨俣川の戦いの直後には早くも官兵の兵粮は尽き始め、6月には横田河原の戦いで城助職が惨敗、7月には北陸道でも反乱が起こり能登国の目代が逃亡した。この頃の平氏は「その勢日を遂ひて減少し、諸国の武士等、敢へて参洛せず」という状況であり、貴族の所領を奪って武士に給与するという非常手段に出るものの、違背者が続出して効果はなかった。 このような中で、源頼朝は後白河法皇に「全く謀叛の心なし。偏に君の御敵を伐たんためなり。而れども若し平家を滅亡せらるべからずば、古昔の如く、源氏平氏相並び、召し使ふべきなり」と密奏を行う。戦乱の長期化は荘園領主にとって年貢納入の激減を意味したため、後白河法皇は宗盛に和平を打診した。宗盛は後白河法皇が頼朝と独自に交渉したことを咎めず、その和平案にも「この儀尤も然るべし」と一定の理解を示しながら、「我が子孫、一人と雖も生き残らば、骸を頼朝の前に曝すべし」という清盛の遺言を盾に、「勅命たりと雖も、請け申し難きものなり」と拒否している。
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