甲斐の南部氏とは? わかりやすく解説

甲斐の南部氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 23:31 UTC 版)

南部氏」の記事における「甲斐の南部氏」の解説

戦国時代には義重系・河内南部氏の一族甲斐守護武田氏従属する。『甲斐国志によれば大永3年1523年3月13日には八代郡小山城主・穴山伊予守信永が南部某の攻勢により自害したという。一方波木井居た波木井南部氏の義実は、大永7年1527年)に駿河国今川氏通じて武田信虎敵対したため滅ぼされている。 甲斐国では天文10年1541年6月信虎嫡男・晴信が父を駿河追放して家督継承する戦国期武田一門には「南部信登」の存在知られる。信登は「蓮華定院文書坤」に含まれる未詳10月18日断簡に「武田下野守信登」として記載され武田姓を名乗る人物であったことが確認される。 『甲陽軍鑑』巻十四によれば宗秀は、父・信虎駿河追放して家督相続していた武田晴信に、天文17年1548年)「南部殿」「南部下野守殿」が足軽大将山本勘助誹謗中傷したことにより晴信の不信を買い、国外追放されたとする逸話記されており、これが信登に該当する考えられている。 一方公家山科言継日記である『言継卿記』には、元亀元年1570年3月24日織田信長のもとに「武田下野守」が参礼したことを記している。将軍足利義昭推戴し織田信長はこの時期まで武田家とも友好的関係だったが、「武田下野守」を信登とすれば上洛して、信長包囲網築いていた将軍義昭仕えていた可能性考えられている。国替え波木井南部氏成敗された後、河内地方には武田氏一族穴山氏入部して国衆となる。 甲斐南部氏主君である武田勝頼率い武田氏は、織田徳川連合軍との天正3年(1575年)の長篠の戦い敗れた後、7年後甲州征伐滅びている。しかしその織田信長織田氏同年明智光秀謀反により実質滅びている。南部下野守跡取りで、10代目当主河西満秀は長篠の戦い討ち死にしたと伝わる。

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