甲斐の南部氏
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戦国時代には義重系・河内南部氏の一族は甲斐守護・武田氏に従属する。『甲斐国志』によれば、大永3年(1523年)3月13日には八代郡小山城主・穴山伊予守信永が南部某の攻勢により自害したという。一方、波木井に居た波木井南部氏の義実は、大永7年(1527年)に駿河国の今川氏に通じて武田信虎に敵対したため滅ぼされている。 甲斐国では天文10年(1541年)6月に信虎の嫡男・晴信が父を駿河に追放して家督を継承する。戦国期の武田一門には「南部信登」の存在が知られる。信登は「蓮華定院文書坤」に含まれる年未詳10月18日の断簡に「武田下野守信登」として記載され、武田姓を名乗る人物であったことが確認される。 『甲陽軍鑑』巻十四によれば宗秀は、父・信虎を駿河に追放して家督を相続していた武田晴信に、天文17年(1548年)「南部殿」「南部下野守殿」が足軽大将・山本勘助を誹謗中傷したことにより晴信の不信を買い、国外に追放されたとする逸話が記されており、これが信登に該当すると考えられている。 一方、公家・山科言継の日記である『言継卿記』には、元亀元年(1570年)3月24日に織田信長のもとに「武田下野守」が参礼したことを記している。将軍足利義昭を推戴した織田信長はこの時期まで武田家とも友好的関係だったが、「武田下野守」を信登とすれば上洛して、信長包囲網を築いていた将軍義昭に仕えていた可能性も考えられている。国替えや波木井南部氏が成敗された後、河内地方には武田氏の一族の穴山氏が入部して国衆となる。 甲斐南部氏の主君である武田勝頼率いる武田氏は、織田・徳川連合軍との天正3年(1575年)の長篠の戦いに敗れた後、7年後甲州征伐で滅びている。しかしその織田信長の織田氏も同年に明智光秀の謀反により実質滅びている。南部下野守の跡取りで、10代目当主の河西満秀は長篠の戦いで討ち死にしたと伝わる。
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