キリスト教と福昌寺
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「福昌寺 (鹿児島市)」の記事における「キリスト教と福昌寺」の解説
天文18年(1549年)、フランシスコ・ザビエルは鹿児島滞在中、島津貴久によってこの福昌寺を宿所としていた。忍室は、しばしば当寺を訪れたザビエルと宗教問答を行うなどかなり親しくしており、ザビエルは書簡で忍室のことを激賞している。 浦上四番崩れの際には、弾圧により捕らえられ改宗させる目的で他藩に預けられたキリシタン約4000人のうち、375人が『平穏丸』に乗せられ明治2年(1869年)末に薩摩藩へ預けられ、廃寺となった福昌寺に収容された。他地域に送られたキリシタンの扱いはひどい物だったが、鹿児島ではキリシタンを丁寧に迎え入れており、「改宗すれば長崎に帰す」と藩の役人が改宗工作を行ない、鹿児島城下の民家に宿まらせたりして改宗は迫ったものの、福昌寺に帰されての自炊生活が許されており、最初の改宗工作期間を過ぎると出稼ぎが許可され、「キリシタンぞうり」と評判になった草履作りや、希望者は尾畔(おぐろ)にあった『島津牧場』での乳しぼりや、薬の竜胆丸作りで生計を立てるなど、ここの待遇はかなり良く、鹿児島の住民からは好意を以て持て成された。 明治5年には、近代日本を掲げたにも関わらず、キリシタンを禁止して捕え囚人扱いすることに対し、外国使臣団が明治政府に不当だと強硬に訴えたことで解放され、3月14日には約3年間の滞在中に生まれた13人も含めた330人が『鹿児島丸』で長崎に帰ることができたが、滞在中に病死した58人は福昌寺跡の山手にある『キリシタン墓地』に葬られた。後に西南戦争に連座して処刑された大山綱良の葬式をしたのは、この浦上のキリシタンであった。
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