キリスト教と福昌寺とは? わかりやすく解説

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キリスト教と福昌寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 23:37 UTC 版)

福昌寺 (鹿児島市)」の記事における「キリスト教と福昌寺」の解説

天文18年1549年)、フランシスコ・ザビエル鹿児島滞在中、島津貴久によってこの福昌寺宿所としていた。忍室は、しばしば当寺訪れたザビエル宗教問答を行うなどかなり親しくしており、ザビエル書簡で忍室のことを激賞している。 浦上四番崩れの際には、弾圧により捕らえられ改宗させる目的で他藩に預けられキリシタン4000人のうち、375人が『平穏丸』に乗せられ明治2年1869年)末に薩摩藩預けられ廃寺となった福昌寺収容された。他地域送られキリシタン扱いはひどい物だったが、鹿児島ではキリシタン丁寧に迎え入れており、「改宗すれば長崎帰す」と藩の役人改宗工作行ない鹿児島城下の民家に宿まらせたりして改宗迫ったものの、福昌寺帰されての自炊生活が許されており、最初改宗工作期間を過ぎると出稼ぎ許可され、「キリシタンぞうり」と評判になった草履作りや、希望者は尾畔(おぐろ)にあった島津牧場』での乳しぼりや、竜胆丸作り生計立てるなど、ここの待遇はかなり良く鹿児島住民からは好意を以て持て成された。 明治5年には、近代日本掲げたにも関わらずキリシタン禁止して捕え囚人扱いすることに対し外国使臣団が明治政府不当だ強硬に訴えたことで解放され3月14日には約3年間の滞在中に生まれた13人も含めた330人が『鹿児島丸』で長崎帰ることができたが、滞在中に病死し58人は福昌寺跡山手にある『キリシタン墓地』に葬られた。後に西南戦争連座して処刑され大山綱良葬式をしたのは、この浦上キリシタンであった

※この「キリスト教と福昌寺」の解説は、「福昌寺 (鹿児島市)」の解説の一部です。
「キリスト教と福昌寺」を含む「福昌寺 (鹿児島市)」の記事については、「福昌寺 (鹿児島市)」の概要を参照ください。

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