キリスト教と憂鬱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/16 14:28 UTC 版)
中世ヨーロッパの僧侶の間では、うつにより何も進まなくなる現象は「怠惰」(倦怠、鬱、嫌気、sloth、ギリシャ語、ラテン語でアケーディア「acedia(英語版)」)として知られ、様々な神学的著作(例えばトマス・アクィナスの『神学大全』vgl. II/II, qu. 35)にとりあげられている。キリスト教における初期の例では、4世紀にエジプトにいた苦行者・修道僧ポントスのエウアグリオス(エヴァグリオス・ポンティコスの著作において、「acedia」は「白昼の悪魔の訪問」と記述されている。その弟子ヨハネス・カッシアヌス(英語版)からトマス・アクィナスに至るまで、「七つの大罪」のひとつともされた「acedia」に関する研究が進んだ。 16世紀のプロテスタンティズムにおいて、メランコリーは異なった解釈をされた。この時期のメランコリー研究は、罪を避けることには主眼を置かず、信仰を試す悪魔の誘惑としてのメランコリーが研究された。絶望感や沈滞の状態が現れる時は、その信仰の真剣さが試される時でもあった。一方でメランコリーの破壊的な力が認識され、祈りや賛美歌や世俗的な歌などによる気晴らしを通じた治療が勧められた。憂鬱や恐れに何度も襲われたマルティン・ルターの体験も、ルターおよび支持者らによるメランコリーの慰めに関する著作へと結び付いた。対抗改革の側は16世紀後半、メランコリーをプロテスタントの病とするプロパガンダを行っている。
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