キリスト教と女子教育に貢献
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「広岡浅子」の記事における「キリスト教と女子教育に貢献」の解説
開講3年目となる1904年(明治37年)、夫(広岡信五郎)の死去を機に事業を娘婿の広岡恵三(大同生命第2代社長)に譲る。以後は女子教育や婦人事業に貢献することを是とし、社会貢献事業と自身の学問に専念、長井長義らに学ぶ傍らで愛国婦人会大阪支部授産事業の中心的人物としても活動した。 1909年(明治42年)1月に大学病院において胸部の悪性腫瘍手術を受け回復。同年年末に大阪の菊池侃二宅で宮川牧師と知り合い、同席者の成瀬から宗教哲学を勧められた縁で1911年(明治44年)に宮川経輝より受洗。婦人運動や廃娼運動にも参加し、当時発行が相次いでいた女性雑誌に多数の論説を寄せる。「女性の第二の天性は猜忌、嫉妬、偏狭、虚栄、わがまま、愚痴であり、西洋婦人は宗教により霊的修養をしている」とし、宮川による『心霊の覚醒』や自らの宗教的信条を記した『一週一信』を出版して日本のキリスト教化に励んだ。日本YWCA中央委員、大阪YWCA創立準備委員長を務めた。 日本女子大学設立後も浅子の女子教育に対する情熱は衰えることがなく、1914年(大正3年)から死の前年(1918年)までの毎夏、避暑地として別荘を建設した御殿場・二の岡で若い女性を集めた合宿勉強会を主宰。参加者には若き日の市川房枝や村岡花子らがいた。このころ東京芝材木町、現在の六本木ヒルズ、ハリウッドビューティプラザのところに親戚の建築家ヴォーリスの設計で4階建ての家を建てている。 1919年(大正8年)、腎臓炎のため東京・麻布材木町(現・六本木6丁目)の別邸にて死去。享年71(満69歳没)。「私は遺言はしない。普段言っていることが、皆遺言です」と、遺言を残さなかったと言われる。生前から「(子孫には)不動産で資産を残してやりたい」と各地に別邸・別荘を積極的に建築していた。葬儀は東京と大阪で2度行なわれ、浅子の功績を称え、日本女子大学校では同年6月28日に全校を挙げて追悼会を開催した。 追悼式で弔事を述べたのは、日本女子大学校の創立委員長も務めた大隈重信であった。大隈は広岡の功績について、こう語った。 浅子夫人は常に『たとひ女子であっても努力さえすれば男子に劣らぬ仕事ができるものである、また力があるものである。而して人間は、その境遇を切り開いて自分の思う理想に達することのできるものである』という固い信仰を持っておられました。(中略) このように浅子夫人は、男子も及ばぬような偉大な力をもって全ての事にあたられましたので、ある一部分の人からは多少誤解も受けましたが、しかし浅子夫人の活動は実に目覚ましいもので、ただにその広岡家のためのみならず、社会的の活動は本当の手本としなければなりません。 — 大隈重信
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